前提理解ということ(その2)

先日、前提理解ということについて考えを述べさせていただきました。
それについてリベラル派キリスト教の立場から論を立ててくださった方がおられます。
リンクを貼り付けておきますので、是非お読みくださるようにお奨めいたします。

http://arinopapa.arinomamachurch.com/キリスト教/前提理解ということその1.html#comment-185

超教派の神学校に通っていたとき、カルビン神学が背景にある神学生と議論したことがありますが、双方とも感情的になって、大きな声で言い合ったことがありました。
関心が神学のことばかりで、このような言い方をしたら相手の感情を傷つけるだろうというような配慮が一切できなかったので、相手が突然怒りだしてしまったのです。
それが今は聖書観が全くと言っていいほど異なるのに、リベラル派のクリスチャンと穏やかな気持ちで対論出来るとは夢のような気がします。
神様が良い御方をお与えくださっことを感謝しております。
どうぞ皆さんも、ともに参加してください。

何回かのコメントのやりとりの中で議論の中心は移行していますが、より核心に近づいて行っていると理解しています。
貼り付けたリンクのコメントの下にもいくつかのコメントが書かれていますので、是非お読みください。

ありのパパとしては、あの文章の1でリベラル派の不足していると思われる点を、2で福音派の不足していると思われる点を挙げ、3ではどうしたら良いのかを書いたつもりです。
それに対してリベラル派クリスチャンからの応答はありましたが、福音派クリスチャンからの応答はまだありません。
是非、福音派の方からもコメントをいただきたいと願っています。

話の大まかな流れはこうです。
[リベラル派の主張]
①古代の世界観と聖書の使信は区別されるべきだ。
②万人救済主義について、イエスの十字架があるからこそ、すべての人が救われているのだ。

[福音派の主張]
①古代の世界と聖書の使信は分離されてはならない。
②すべての人が救われているのではない。すべての人が救われる可能性があるのだ。

この方の仰ることには、教えられる点が多くあります。
この文章を書くために、もう一度コメントを読み直したのですが、恵まれました。
なぜ一番初めにコメントを読んだときに恵まれなかったかというと、反論する気まんまんで読んだので、恵まれている心の余裕がなかったのです(笑)。

それでもなお、お聞きしたい事柄が、福音派信徒であるなら誰でも沸き上がります。

①リベラル派キリスト教の理解では、すでに救われている人々に「あなたはもう救われているのですよ。」と気づいていただくことが伝道ということになります。

これはおかしいと思います。
なぜなら聖書は明確に、「すべての人が救われているから、救われていることを知らせに行け。」とは命ぜずに、「すべての人が神に愛されている。十字架の贖いによって誰でも信じるならすべての人が救われることが出来ることを知らせに行け。」と命じているからです。
聖書は福音を宣べ伝えて、人々を救いに導けと命じているのです。

②リベラル派は信仰によって救われるのだとしたら、救いが条件付きのものとなってしまわないだろうかと言います。

確かに福音派教会の現状を見ると、「信じてやった自分」という一体何様?というような人が少なくないのも事実です。
しかしそれは罪の現実に対して無力である自分ということが判らないまま入信してしまったので、天才的な勘違いをしているのです。
努力をした者が救われるというなら確かにそれは条件付きの救いとなり、神の愛の無条件性に反します。
そうではなく信じるだけで救われることが出来ると言うとき、それは決して神の愛の無条件性に反しません。

③リベラル派が言うように、今すでにすべての人が救われるているなら、どうして世の中にはこんなにも多くの問題があるのでしょうか。

それは救われていることを知らないからだと、リベラル派は答え、だからこそ救われていることを知らせなければならないと言うでしょう。
しかし救われていることを知ったところで、どうしてそれが問題解決の力となるでしょうか。
決してそのようなことはありません。
人は神から力ある救いを自覚的に信仰によって受け取って初めて、自分自身が生まれ変わることができ、問題に対して挑戦することが出来るようになるのです。
救いとは力あるものです。罪の力に対しても、病気に対しても、経済的問題に対しても、人間関係の問題に対しても、効果のある解決策を提示しています。

○首を洗って反論をお待ちしています。どうぞ御手柔(おてやわ)らかにお願いします(笑)。

2 thoughts on “前提理解ということ(その2)

  1. ありのパパさん、おはようございます。
    以前このブログにコメントしたことがありますが、私も随分と短気で癇癪持ちなので、立場の違うパパさんとこうして穏やかに論戦を交えることができることを不思議に思い、同時に感謝しています。
    信仰のことというのは、誰にとっても「絶対的」なものなので、自分と違う立場に対して熱くなってしまうのは当たり前だし、ある意味それが真実の証しなのかも知れませんが、それが度を過ぎると、自分が神さまの位置に座ってしまい、自分が神さまの代弁者になってしまって他人を裁くようになる危険性もはらんでいると思います。ですから、自分の信じるところを熱く語りながらも、相手の主張に謙虚に耳を傾けることのできる、このような場は貴重なものだと思います。2チャンネルでよく見られる「罵り合い」のような事態ほど主の栄光を汚すものはないと思います。願わくば、主がこのブログを祝福し、実り豊かなものとして成長させてくださり、福音派とリベラル派の相互理解の架け橋の一助としてくださるように祈ります。

    というところで本題に入りたいのですが、実は父が昨日手術をして今朝、会社に行く前に病院に寄らなくてはならないのと、明日の早朝、息子の引越しのために出かければならないこと、また今夜は教会の週報を作成しなくてはならないことなどが重なってしまい、コメントを書いている余裕がありません。そんな訳で、皆さんの反応を見ながら、落ち着いたら私のコメントを書かせていただきたく思います。

  2. ヒラぴゃんさん、こんばんは。
    お忙しい中、コメントくださり感謝いたします。

    道中、無事に守られ、息子さんのお引っ越しもつつがなく守られますように。
    またお父様が再び健康を取り戻されますことを祈ります。

    反論はいつでも結構です。首を洗いつつ、楽しみにお待ちしております(笑)。

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