前提理解ということ(その1)

なんにでも前提理解というものがあります。

1.リベラル派キリスト教は、聖書が書かれた当時の世界観は原始的であり、現代に生きる人々には受け入れられないという、前提理解があります。

だ・か・ら、現代に生きる我々が、聖書の中から受け入れられるものと受け入れられないものを取捨選択しなければならないとの理解につながっていきます。
このリベラル派キリスト教の聖書観の前提になっている考えは、妥当なものでしょうか。

①現代人には聖書が書かれた当時の世界観は受け入れられないはずなのに、ではなぜ聖書は神の言葉そのものであると信じる福音主義キリスト教が、全世界のキリスト教の中で(ペンテコステ教会を含めると)多数を占めているのでしょうか。

これでは主張そのものに瑕疵(かし)があると言わざるを得ません。

②リベラル派キリスト教の聖書観から当然の論理的帰結として導き出されるのが、万人救済主義です。

リベラル派はキリストの十字架によって全人類の罪の贖いは完成したのだから、信仰の如何にかかわらず、すべての人が救われるのは当然であるとします。
ありのパパは、この論理の展開の仕方に危うさを感じます。
なぜかと言うと、そのような論理展開が可能なら、その論理をもっと押し進めて、[イエスの十字架がなくとも、すべてを支配する神がご自身の権威によって、「すべての人を救う」と宣言されたならば、それで救いは完成する。
なぜなら神は全能者であり、愛そのものの御方だから。]とならないでしょうか。

③リベラル派は原始的な宗教観は受け入れられないと言いますが、果してそうでしょうか。

全世界を探しても、死後の裁きを言わない宗教は存在しません。
これを原始的と言うのはリベラル派の勝手ですが、ありのパパはこれとは違う理解をしています。
それは神がそのような思いを持つ者として人間を創造されたのであり、人間が他の被造物と唯一違う点である霊的存在であるとは、誰に教えられなくても死後の世界の存在を直感し、死後において裁きがあることをうすうす感じるということではないでしょうか。

○私たちクリスチャンは福音派も含めて皆、もう一度聖書観の前提理解について慮(おもんぱか)ってみる必要があります。

2.聖書は難しいという前提理解があります。

それで誰かに教えてもらわなければならないとする考えにつながります。

①田舎に住む両親が、都会で働く子供に宛てて書いた手紙のように、「元気でいるか?たとえ失敗したとしても、そのままのあなたで良い。失敗した負債は親である私たちが全部支払ったから、心配しなくて良い。」と書いてあるのが聖書なのです。

あなたは両親から来た手紙を、誰かに教えてもらわないと意味を理解することができませんか?
聖書は父である神が私たちをかわいそうに思って書いてくださった愛の手紙であるのです。
その聖書が難しくあるはずがありません。

②いのちのことば社で新たに日々のデボーションのための雑誌を創刊することになったそうです。

それは今まで使っていた弟子訓練教会傘下の出版社で発行されていた小冊子が使えなくなったので、それの代わりになるものが必要になったからです。
しかしこれは結局、依存の対象を変えたに過ぎません。
アルコール依存が覚せい剤依存になったのと同じことです。
問題の核心は、神の言葉以外のものに依存していることであるにもかかわらず、それは棚に挙げて、依存の対象をすげかえるという小手先の対応に終始しています。

○これを機会に聖書以外の何物も、神と私の間に置かないと堅く決心して歩み出すべき時です。

3.いつまで立っても他人行儀な親子関係。

孤児院から連れて来られた孤児が恥ずかしそうに、孤児院の職員の影に隠れて、新しく自分の養父母となってくれる夫妻を窺(うかが)う光景があります。
子供は恥ずかしがり屋ですから、初めはそれで良いのですが、いつかは思い切って新しく養父母となった方の懐へ飛び込んでいくことが必要です。
そのことによってのみ、他人行儀でない、暖かい血の通った、真の親子関係を持つことができます。

これは孤児と養父母の関係について言っているのでしょうか?
そうではありません。
私たちクリスチャンと父である神様との関係について申し上げているのです。
父である神様の愛の手紙を、神の言葉そのものではないと言ってみたり、愛そのものの聖書を、人に教えてもらわないと理解がむずかしいなどと、あきれるようなことを言ってみたり、私たちクリスチャンは父である神様とどこか他人行儀ではないでしょうか。
あなたはせっかく信仰を持ったのに、死ぬまで他人行儀のままで、お過ごしになるつもりですか。
それとも人生のどこかで、「お父ちゃん!」と叫んで、父である神の懐に飛び込みますか?
それをお決めになるのは、あなたご自身であられるのです。

8 thoughts on “前提理解ということ(その1)

  1. ありのパパさん、こんばんは。

    毎日、色々なことを教えられながら拝見させていただいています。
    それにしてもパパさんは、キリスト教のことからカウンセリングのこと、はては健康のことなど、レパートリーが広いですね。
    博学と言おうか、博識と言おうか・・・・う~ん、私には真似ができません。

    本日の内容は、リベラル派が俎板の上に乗せられていたので、久し振りに反論してみようかと思い書き込みさせてもらっています(笑)

    >①現代人には聖書が書かれた当時の世界観は受け入れられないはずなのに、ではなぜ聖書は神の言葉そのものであると信じる福音主義キリスト教が、全世界のキリスト教の中で(ペンテコステ教会を含めると)多数を占めているのでしょうか。
    これでは主張そのものに瑕疵(かし)があると言わざるを得ません。

    ⇒確かにブルトマンは、パパさんが言われるような前提を主張していますが、リベラル派の人間が皆そうのように言っている訳ではありません。
    現実に、福音派の方々は受け入れている訳で、そのような事実を無視することはできないと思います。
    ブルトマンが主張していることで重要なことは、「古代の世界観と聖書の使信(ケリュグマ)は区別されるべきだ」ということなのです。と言っても、福音派の立場からは「聖書に書かれている内容を、世界観とケリュグマに区別するなんてこと自体がナンセンスだ」と反論されるかも知れませんが・・・。


    >②リベラル派キリスト教の聖書観から当然の論理的帰結として導き出されるのが、万人救済主義です。
    リベラル派はキリストの十字架によって全人類の罪の贖いは完成したのだから、信仰の如何にかかわらず、すべての人が救われるのは当然であるとします。
    ありのパパは、この論理の展開の仕方に危うさを感じます。
    なぜかと言うと、そのような論理展開が可能なら、その論理をもっと押し進めて、[イエスの十字架がなくとも、すべてを支配する神がご自身の権威によって、「すべての人を救う」と宣言されたならば、それで救いは完成する。
    なぜなら神は全能者であり、愛そのものの御方だから。]とならないでしょうか。

    ⇒まず第一に、リベラル派は全て万人救済主義ではありません。むしろ、私のような万人救済主義の方が少数派かも知れません。私は万人救済主義ですけれど・・・。
    それから、「万人救済ならば主イエスの十字架は不要になってしまわないか」という問いには「NO!」という答えです。そうではなくて、「主イエスの十字架があるからこそ万人は救済される」ということなのですが・・・。

    >③リベラル派は原始的な宗教観は受け入れられないと言いますが、果してそうでしょうか。

    ⇒リベラル派では、このようなことを言っているのでしょうか?
     すみません、少なくとも私はそのようなことは言ったつもりはないのですが、もし、何かのはずみでそんな意味のことを言ったとしたらごめんなさい。
    少なくとも、私は福音派の信仰が原始的だなんてことは思っていません。

  2. ヒラぴゃんさん、こんばんは。
    コメントありがとうございます。

    反論に対する反論で申し訳ないのですが、ヒラぴゃんさんの反論を読んで、福音派信徒なら誰でも感じるであろう疑問を述べさせていただきます。

    ①なぜ世界観と使信を分ける必要があるのでしょうか?
    その理由は何でしょうか。


    ②なぜそのように書いたかといいますと、聖書には「個人的にイエスを救い主と信じない限り救われることはない」と明記されているにもかかわらず、それでもなお万人救済主義の主張が出てくるなら、(そこまで論理が飛躍するなら)「主イエスの十字架も人間が救われるためには必要ない」という主張も同じような論理展開で十分主張することが可能であると思われたからです。
    この点はいかがでしょうか?

    ③「原始的な宗教観」とは古代の世界観に基づく宗教を指しています。
    私はこの「古代の世界観」こそ重要であると考えているのです。
    なぜならこの世界観の文脈の中で、神はお語りになり、イエスも語られたからです。

    ①の問題にかかわってきますが、私は古代の世界観と使信を分離してはならないと考えています。

    お暇なときにでも、よろしけばお答えください。
    体組成計に28歳と判定してもらい、今日は夜更かしをしてしまいました(笑)。

  3. ありのパパさん。おはようございます。
    二十代の若さだからといって無理してはいけません(笑)

    福音派とリベラル派の聖書理解や信仰理解には、パパさんがおっしゃる「前提理解」すなわち「パラダイム」があるので、どちらかがパラダイムシフトを経験しない限り、一致することはできないと思います。
    しかし、相手を「理解」することは可能だと思い、また、相手からも自分の立場を理解してもらうことは可能だと信じて、このブログに参加させていただいています。

    パパさんからのご質問についてですが、

    >①なぜ世界観と使信を分ける必要があるのでしょうか?

    ⇒これは聖書観の問題になるのですが、福音派は聖書を「文字」通りに神の言葉として受け入れますよね。
    でもリベラル派は「文字」に拘泥はせず、その「内容」(聖書が私たちに伝えようとしている内容(使信)というのは「福音」というケリュグマです)を神からのメッセージとして受け入れます。
    その「聖書の使信」は、人間の文字(ギリシャ語やヘブル語)で書かれています。
    人間の文字で書かれているということは、その「内容」を「表現」するためには、その文章を書いた人間の世界観によって表現せざるを得ないということになります。
    つまり、「世界観」は、「内容(使信)」を表現するためのものであって、聖書を通して神さまが私たちに伝えたい内容そのものではなく、その内容を伝えるための「表現方法」なのだということです。
    勿論これはリベラル派の前提理解なので、福音派の方が、「自分はそんなふうには考えないよ」と言うのであれば、それを否定はしませんが、少なくとも私(ヒラぴゃん)はそのように考えているということです。

    >②なぜそのように書いたかといいますと、聖書には「個人的にイエスを救い主と信じない限り救われることはない」と明記されているにもかかわらず、それでもなお万人救済主義の主張が出てくるなら、(そこまで論理が飛躍するなら)「主イエスの十字架も人間が救われるためには必要ない」という主張も同じような論理展開で十分主張することが可能であると思われたからです。

    ⇒確かに聖書を読むと、主イエスを信じることが救いの前提になっているように書かれていますし、そのような聖句はたくさんあります。
    しかし、聖書というのは、よく言われているように全巻でその表現が首尾一貫しているわけでもないと思うのです。
    (こんなことを言うとパパさんの血圧が上昇してしまうかも知れませんが)
    福音派のように聖書も文字に拘泥すると、聖書の表現が首尾一貫していないという主張は受け入れられないと思いますが、ここで私が言おうとしているのは、「表現」は首尾一貫していないけれど、その究極的な「内容」は一貫しているということなのです。
    例えば、主イエスは福音書の中で「汝の敵を愛せよ」と言っています。
    しかし、同じ新約聖書のヨハネの黙示録では、神に敵対するものは(サタン)は永遠の地獄に投げ入れられると書かれていて、ノンクリスチャンはまるで地獄行きのように思える表現になっています。
    私が普遍救済主義になった理由は、このことをどのように理解すべきか、ということから出発しています。
    つまり、神さまご自身が、私たちに「汝の敵を愛せよ」と命じておきながら、神さま自身は「自分を信じない者は滅ぼす」と言っているのは矛盾なのではないか、と思ったけです。
    例にあげた聖書の箇所は表現においては、お互いに矛盾しています。
    しかし、ヨハネの黙示録で最終的に滅ぼされるのが「不信心な人間」ではなくて、人間を不信心にさせている「悪の力(サタン)」であると理解するならば、ヨハネの黙示録は、人間を裁く恐怖の書から一変して、究極的に人間から悪を救い出して下さる愛の書になるのではないでしょうか。
    そうのように理解すれば、聖書各巻の「表現」は違っていても、その内容(使信)は同じだと言えると思うのです。

    ロマ書の8章は、先日パパさんが読まれたところだと思いますが、パパさんはここを読んで、万人救済説など決して出てこない、と理解されたようなのですが、私はむしろここから普遍救済の希望を読み取るのです。

    確かにここでは「肉」と「御霊」とが対比されていますが、この「肉」からの解放は人間の努力によるものではなく、神からの賜物であることは異論がないと思います。
    そして、その神の恵みにより「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」(8:2)と書かれているように、主イエスの十字架によって私たちは自分の努力や行いでなく救われているのです。
    ここで言われている「あなた」を、クリスチャンと限定するか、あるいは、神によって造られた人間全体にまで広げるかで解釈は違ってくると思います。
    クリスチャンに限定すれば「信じる者は救われる」になるし、人間全体に拡大すれば「全ての人は救われる」になると思います。
    確かに、この箇所においてパウロはクリスチャンに限定した上で書いていると思われます。
    しかし、私は「現在」クリスチャンになっている人だけが、この救いに与るのではなく、終末の時、悪が滅ぼされて人間全てがエデンの園における創造の最初に戻されるときには、人間は、ここでパウロが言っている恵みに与る者とされるのだと信じているのです。

  4. ヒラぴゃんさん、こんばんは。
    確かに若いのは気持ちだけだったようです。
    今日はあまりに疲れてパソコンに向かう気が起きませんでした。
    しかもコメントを書こうとすると、気がつくと「ありのパパさん、こんばんは。」と書いていました。
    やっぱりこの年になると安全運転しないといけませんね。

    さて、またまた反論です。すいません。なにか自由主義キリスト教に反論を試みたアメリカ根本主義キリスト教みたいになってきました。
    しかし私としては(お互いが感情的にならない限り)一生でも対論を継続したいという気持ちであるのです。

    では本論です。(笑)

    ○すべての人が死後の救いを約束されているなら、なぜそれは生きている今ではいけないのでしょうか?
    (無制限に)信仰によらずに救われるのなら、生きている今この時に受けることができるなら、なんと幸いなことでしょうか。
    さらに言うなら、救いを死後にまで遅延される神は何と理不尽な方ということにならないでしょうか?

    ○死んだ後に救われるときには信仰がいらないのに、生きているときに救われるためには信仰が必要だということになれば、それでは救われるための条件が変わってしまうことになります。
    それはまた、死が人間を救うということになってしまわないでしょうか?。
    これは聖書の記述と明確に異なります。
    聖書は死は人の敵だと言っています。

    ○「死後に救ってくれるのなら、なぜ今救ってくれないのか?」
    リベラル派キリスト教は、様々な悩み・困難に苦しむ人々の叫びに答える義務があると思います。
    この叫びに対して、福音主義キリスト教は明確に答えることができます。

  5. ありのパパさん、こんばんは。
    お疲れのところ、神経を逆なでするようなコメントばかりですみません(笑)

    でも、パパさんとのやり取りをしていて感じる正直な感想は・・・、福音派とリベラル派の論争では、リベラル派は圧倒的に不利なんですよ。なぜだか分かりますか?
    福音派には「聖書」をそのまま神の言葉と主張する「錦の御旗」があるからです。
    パパさんと論争していていつも感じるのは、何となくの「後ろめたさ」なのです。

    一つの命題についてリベラル派が自分の信じるところを一生懸命に弁証しようとすると、何となく、一生懸命に聖書を否定しているような感じがしてくるのです。

    福音派の人は、一生懸命に聖書を擁護しようとしますよね。でもリベラル派は、何か一生懸命に聖書が神の言葉でないことを論証しているようなジレンマに陥っているような、そんな気がして、正直、時々「俺って何言ってんだろう?」みたいな気持になることがあります(笑)

    パパさんとの論争でちょっと弱気になったヒラぴゃんでした。

    とまあ、前置きはこの位にして本論に。

    パパさんへの反論です(笑)

    >○すべての人が死後の救いを約束されているなら、なぜそれは生きている今ではいけないのでしょうか?
    (無制限に)信仰によらずに救われるのなら、生きている今この時に受けることができるなら、なんと幸いなことでしょうか。
    さらに言うなら、救いを死後にまで遅延される神は何と理不尽な方ということにならないでしょうか?

    ⇒救いは別に「死後」に与えられるものだとは言っていません。全ての人は主イエスの十字架で救われている。これが大前提です。
    確かに、人間が「罪」から解放されるのは「終末」の時です。でもそれは、何も現段階で主イエスを信じていないノンクリスチャンだけの問題ではなく、主イエスを信じているクリスチャンでも同じではないでしょうか?
    私たちは、主イエスの十字架によって義とされた。しかし同時に罪人のままなのです。人間というのは十字架のゆえに義とされた罪人です。パウロも「私は罪人のかしら」だと告白しているように、私たちは全て「罪人」であることに変わりはないのです。でも、神さまは、そんな私たちを「罪人のままで義として下さった」それが「福音」というものではないでしょうか?

    クリスチャンというのは、その救いの奥義を知らされた者なのであって、ノンクリスチャンはまだその奥義を知っていない者なのだと私は理解しています。
    主イエスの十字架の贖いによって救われているのはクリスチャンだけではない、ノンクリスチャンも救われている。でもノンクリスチャンはまだそのことに気づいていない人たちなのだと思うのです。

    伝道というのは、まだその奥義を知らないでいる世の人々(ノンクリスチャン)に、その恵みの奥義を告げ知らせる働きなのだと私は思うのです。

    この奥義を知らないまま死を迎えるノンクリスチャンも、主イエスの十字架の救いからはもれていない。彼らも救いに与っている。

    でも、そのような救いの奥義があるのだとしたら、それを知っていれば死も恐くはなくなるじゃないですか。だから、私たちクリスチャンはまだその奥義を知らないでいる人たちにその奥義を知らせるのです。

    「あなたも救われているんだよ」

    救いはすでに成就している。でも完成は終末のときに与えられる。
    終末における完成の希望というのは、別にノンクリスチャンだけの問題ではなく、むしろ私たちクリスチャンが抱いている希望ではないでしょうか?


    >○死んだ後に救われるときには信仰がいらないのに、生きているときに救われるためには信仰が必要だということになれば、それでは救われるための条件が変わってしまうことになります。
    それはまた、死が人間を救うということになってしまわないでしょうか?

    ⇒「救われるために信仰が必要」という論理は福音派でよく用いられますが、私はむしろ逆で「救われた者が神さまに対していだく感謝と信頼が信仰なのだ」と理解しています。
    もし、救われるために、人間の信仰が条件になるのだとしたら、救いは「条件つき」のものになってしまわないでしょうか?
    救いは「無条件」のものであり、「全き神さまの恵み」なのだと思います。
    主イエスがよく言われた「あなたの信仰があなたを救った」という言葉をそのまま読むと、人間の「信仰」が救いの条件のようにも見えますが、私は「信仰」というものそのものも「神さまからの恵み」なのだと思います。

    まず十字架の「救い」が何よりも優先する。そこから私は救いの論理を展開していくのです。

  6. ヒラぴゃんさん、こんばんは。
    コメント拝見しました。
    すぐにも応答したいのですが、28歳by体組成計なので、明日の晩に返コメいたします。

    良心的な姿勢をもって神様にお仕えになっているヒラぴゃんさんに敬服いたします。
    では、おやすみなさい。

  7. ヒラぴゃんさん、こんばんは。

    この時間までに返コメしますと申し上げましたが、時間的に無理ですので、
    思い切って、明日のアップする文章を返コメに当てたいと思います。

    このコメント欄のやりとりを、そのまま転載すれば一日分の文章となるのですが、さすがにそれはやめときます。

    いつものごとく、リンクを貼らしていただき、それに答える形で文章を書きたいと思っています。

    よろしくお願いします。

  8. ありのパパさん、こんばんは。
    了解しました。
    それでは明日のブログを拝見させていただきます。
    それで、申し訳ないのですが、土曜日の早朝に、夫婦揃って息子の引越し(下宿を変えるため)に出かけてしまいますので、返事を書くのが日曜日の夜になってしまうと思います。どうぞ悪しからず。
    今度の日曜日の礼拝は、浜松市内で同級生が牧師をやっている教会に出席する予定です。

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