あるブログで、脅迫伝道と言われてもいいから伝道するという意見と、それはおかしいという意見がありました。
前者の方は福音派のキリスト者で、後者の方はリベラル派の信仰を持っておいでのようでした。
これについて興味深い多くの意見が出されました。
それで私も意見を述べてみることにしました。
クリスチャンが伝道するとき、どのように福音を伝えているでしょうか。
また未信者の方は、どのように福音を伝えてもらうと人格的応答が可能となるのでしょうか。
これらのことを考えながら、今日のブログの記事を書いてまいります。
1.悔い改めて、イエス様を信じる時、五つのことがその人のうちに起きます。
①罪の赦し(罪が赦されること)
②義認(義と認められること)
③新生(新しく生まれ変わること)
④神の子(神の子とせられること)
⑤永遠の命(永遠の命を持つこと)
こんなに豊かな救いのすばらしさを伝えるのは千の口があっても無理だと思われるほどです。
ですから私たちが福音を伝える時、これらの五つがバランスを持って伝えられるように、御霊に満たされて、罪人を憐れむ心(共感的理解)を持って伝道できるように祈ってまいりましょう。
2.神様は私たちが真に自分自身と和解するために、まず御子による和解をくださいました。
そしてこの和解の福音を私たちに託されました。
周りの方々に和解の福音をお伝えする前に、その方々と私たちが和解していなければ、どうして和解の福音の伝道に耳を傾けてくださるでしょうか。
「あなた、伝道する前になすべきことがあるんじゃない?」(もちろんそれはその人たちとの和解です。)
ですから福音が人々に到達するために五つの段階があります。
①御子の十字架によって、自分が神と和解する。
②和解の福音によって、もう一人の自分すなわち自分自身と和解する。
③自分の中に和解が満ちたら、その和解を持って他者(隣人)と和解する。
④そしてその他者(隣人)に神との和解の必要を伝え、御子の十字架を伝える。
⑤ついに時が満ちて、その方のうちに救い(神との和解)が成就する。
このようにありのパパが考える伝道は徹頭徹尾、和解に始まって和解によって完成するのです。
3.では脅かしに見えてしまうかもしれない伝道方法についてはどうでしょうか。
①まず第一に考えるのは、そもそも脅かしに見えるかもしれないような方法で人が信仰に至るだろうかということです。
また(論外ですが)脅かしによる伝道が心理的テクニックを使うなら、それは国家による信仰の強制(原理主義)と同じくらい悪いことです。
②第二にこんなに豊かな福音の内容を持っているのに、なぜ脅かしに見えるかもしれない方法をとる必要があるのかということです。
全くありません。
③人間関係は自分と自分自身の関係の投影だと言われますから、脅かしに見えるかもしれない方法で伝道するのは、もしかしたらまだ自分自身を赦していない、「ありのままでいいんだよ」と言ってあげていないことが原因かもしれません。
私たちは天に移されるそのときまで、自分育てに精を出しつつ、人様をお育てし、そしてこのような味わい深い人生をおあたえくださった主に栄光をお返ししつつ、「この道」を伝えてまいりたいものです。
追記:
「救いは生前に限られるのか」という歴史的キリスト教から見れば驚くようなことが議論されておりました。
この問題についてもありのパパの見解を記してみたいと思います。(とは言っても単純・素朴の聖書信仰者の域を出るものではないことをご了解ください。)
①聖書を単純に読むとき、死後の救いという思想は絶対に出て来ようがない。
どの箇所も「生きている間に主とお会いする用意をせよ。」との主張に満ちている。
生きている間に信じたほうが、死んでから信じるより、被造物にはふさわしいなどという主張は欺瞞でしかない。
そうではなく聖書は生きている間に主に会う準備をしないと大変なことになると警告しているのである。
②神は宣教を人間におゆだねになられた。
死後の世界では神が直接、死人にお語りになるというのであれば、どうしてこの世においても同様に神が人にお語りにならないのか。
神が直接福音を宣教されて信じない人がこの世にいるだろうか。ただの一人もいないと思う。
それではなぜ神は人に宣教の業をおゆだねになられたのか。
「神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(第一コリント1:21)
これが神の定められたことである。
では死後の世界では神はご自身の定めを反故(ほご)にされるのか。
いや、絶対にそんなことはない。なぜなら神はご自身のみことばにのみ拘束されるからである。
ゆえに聖書を神のことばと信じる限り、死後の救いはありえない。
なぜなら死後の世界には「宣教のことば」を語る者がいないから。
③死後のさばきを言うことは残酷なことか。
もし死後のさばきがないならば確かに残酷であり、私たちは詐欺師ということになる。
しかし本当に死後のさばきがあるなら、これを言わないで福音を伝えることは詐欺以上の犯罪である。
また救いの積極的な面をも同時に伝えることによって、悲惨な印象を最大限抑えることが可能である。
しかし、繰り返しになるが人間的な都合で福音の内容を薄めてよいものだろうか。
ありのパパには「神を恐れよ。」との良心の声が聞こえてくる。
④ある時ありのパパの母親がこう言ったことがありました。
「死後の世界があるかどうか、死んで見ないと分らない。」
そこでありのパパはこう答えました。
「死後の世界はあったなと分っても、その時ではもう遅い。」
そのときありのパパの母が見せた顔を忘れることが出来ません。
人間的な恐れなど露ほど感じず、被造物が神のみ前で厳粛にさばきについて、死について、救いについて思いを巡らしているようでした。
人間として美しいと思いました。
これほど良く思索して(正しい情報が適切に提供されてというのが前提ですが)その結果、信仰を持たなくてもそれはそれでよいとありのパパは思います。
⑤人は神のみ前で責任能力のある存在です。(自由意志による選択が神の助けによって可能という意味です。)
その自由意志を神の助け(これを先行的恩寵と言います)をいただきながら、それでもなお信じない選択をするなら、これを尊重しなければならないのです。
なぜなら人は神のみ前で人格的存在だからです。
このような理解に基づいて伝道がなされるとき、心配されるような「脅迫伝道」がされるとは到底考えられません。
以上をもってありのパパの信仰の表明といたします。
祈り:神様が私たちを一致に導いてくださるように。そしてこの時代に本当のリバイバルを起こしてくださいますように。イエスの御名によって祈ります。アーメン。