什一献金のこと(その2)

以前、什一献金についての文章をアップしたことがありました。
その内容とは什一献金は律法が与えられる前から存在していたのだから、イエスの十字架によって律法が成就したことによっても、什一献金が廃止されたわけではないというものでした。
しかしそれでは什一献金が律法ではないとすると、では何なのかという疑問がわいてきました。
また律法でないと言いつつ、教会によっては「什一献金しないことは泥棒と同じだ。」とか「什一献金しないと呪われる。」と言って信徒を脅かしているという話も聞きます。
もし什一献金しないと呪われると教える牧師がいるなら、その牧師が神に呪われるのです。

○これは什一献金を律法扱いしているのと同じことであり、パウロが激しく攻撃した律法主義であるのです。
そこで今日はもう一度、聖書的什一献金について皆さんとご一緒に考えていきたいと思います。

1.什一献金は感謝の表明である。

什一献金は当然のことながら、救いとは関係ありません。では一体何なのでしょうか。
それは人の自然な心の発露であるのです。
什一献金が聖書に初めて出てくるのは創世記14:20です。
戦いに勝って戻ってきたアブラハムは、イエスの型であると言われるメルキゼデクに対して「戦利品の十分の一を贈った」のでした。
それ以前に什一献金を行うようにとの聖書の記述はなく、自然発生的に起っているように見えます。
ここらへんに真実があるのではないでしょうか。
理屈は関係なく、神様に守っていただいた感謝があると、自然に誰に言われなくても什一献金を行うということが出てきたのだと考えます。
ですから結論として、什一献金をするかしないかは全く自由であるということになります。

2.什一献金は信仰のチャレンジである。

「わたしを試し、わたしがあなたがたのために、天の窓を開いて、あふれるほどの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを見なさいと、全能の主は仰せられる。」(マラキ3:10)
ありのパパが属していた福音派教会では、什一献金について聞いたことはありませんでした。
それは律法であると誤解しないようにとの配慮であったかもしれませんが、やはり聖書に書いてあることを正しく教えないというのは間違いです。
カリスマ運動に出会って初めて什一献金の存在を知ったのですが、その捉え方は恩寵の手段としての献金の捉え方でした。
恩寵の手段とは、メソジスト教会を創設したジョン・ウェスレーが強く主張したことですが、神の恵みは無代価であるが、その恵みの通ってくる道を、恵みを受ける私たちが備えていなければならないというものです。
恩寵の手段には、献金のほかに集会出席・毎日の聖書通読と祈り・聖餐にあずかることなどがありました。
後の時代になって、聖餐式出席は強調されなくなり、代わりに奉仕と伝道・立証が加えられるようになりました。
しかし聖書そのものを読んでいくとき、どちらかというと律法的に捉える恩寵の手段という理解ではなく、もっとダイナミックでチャレンジに満ちた、「信じるなら、君も一丁やってみな!」的な心踊らせる体験であることが分かります。

ありのパパも試してみた者の一人です。
少ない収入のときに始めないと、収入が多くなってからでは惜しくなって出来ないかもしれないと考え、初任給から什一を献げました。
小さなことにこだわる性格を反映してか、一円単位まで什一を計算し、小数点以下を引き上げました。(笑)
神様は今に至るまで経済的祝福をありのパパに豊かに与えてくださっています。(感謝!)

間違っても「什一献金をしたら金持ちになると言ったからしたのに、どうしてくれる!」などとは言わないことです。
それならはじめからおやりにならないのが一番良いと思います。

3.什一献金はあなたの愛をお金に変換したものである。

ありのぱぱのクリスチャンの友人が、「私は神の命令によって什一献金を教会に献げたのだから、教会がその献金を何に使おうが知ったことではない。」と言いました。
この言葉の本音は「祝福狙(ねら)いで献げたのだから、後は野となれ山となれ。私は祝福さえいただければ文句はない。」というものではないでしょうか。
すくなくともありのパパには、そう聞こえました。
しかし今翻(ひるがえ)って考えると、その時疑問には感じたが明確化できなかったことがありました。
それはそのような祝福狙いの献金を果たして神が祝福されるだろうかということです。
今ははっきりと言うことが出来ます。
その献金はどぶに捨てていたのと同じです。(もちろん神さまはその献金をも有効にお使いになられます。しかし献げたことによる祝福はその人のところには戻ってこないということです。)

現在ありのパパは什一献金を世界中で働くNPO団体から、祈って導きをいただいて選び、活動報告書を毎月郵送してもらい、それに基づいて祈り、献げています。
不透明なお金の使い方をする団体や、活動報告書を出さない団体からは手を引いています。

○結局、何が言いたいかと申しますと、自分の献金の使い道に関心を払わないようなものは、それは神の御前で献金とは認められませんよということです。
祝福はおまけです。しかし昔グリコのキャラメルのおまけに胸をわくわくさせた経験のある方ならお分かりになると思いますが、もらう人にとっては楽しみなおまけであるのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">