万人救済主義の間違いについて、何回かにわたって考えてきました。
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今日は万人救済主義を他宗教の目から見てみたいと思います。
1.浄土真宗の開祖である親鸞は、弟子が「私は救われたという確信がありません。どうしたら良いでしょうか。」と質問したとき、次のように答えました。
「私も確信がない。御仏に救っていただくことが出来なかったとしても、私はそれで良い。なぜなら私は生涯を掛けて、救っていただけると信じてお仕えしてきたから、もし救っていただけないとしても悔いはない。」
ありのパパは、これを読んで、親鸞は宗教者の中の宗教者であると思いました。
ある牧師は、親鸞を真の信仰者と呼びました。
キリスト教が我が国に伝来する遥(はる)か以前に、ただ宗教的直感を持って、救いの道を探求した親鸞。
もし彼が聖書を読み、キリストの福音を聴くことができたら、すぐさま入信したと思います。
(実際にカトリックによる宣教が始まったとき、多くの真宗教徒が「キリストこそ、私たちが待ち望んでいる弥勒(みろく)である。」としてキリシタンとなりました。)
2.万人救済主義を信奉する人たちが必ず主張することのなかに、「キリストを信じないで死んだ人が死後どうなるかという質問に、明確に答えることが出来ないと、日本における宣教に可能性はない。」というものがあります。
果たして、その通りでしょうか?
①賭(かけ)の要素のない人生というものは存在しません。
結婚するとき、女性は「幸せになれないかもしれないけど、この人に賭けてみよう!」と思うところもあるのではないでしょうか。
同様に、キリストに自分の人生を賭けてみようと踏み切るのが本当の信仰ではないでしょうか。
「信じなかった場合どうなるか」まで考慮に入れるのは、おかしな信仰ではないかと思います。
少なくとも親鸞が持っていた信仰には劣っていると言わねばなりません。
②未信者が死んだ後どうなるかが、どうしてキリスト教の責任になるのでしょうか。
これは破綻している論理です。
天国や地獄・死後の裁きも、それが真実であると認識した者はキリストを信じて救いを得ます。
しかしキリスト教を不真実であると認識した者は、その時点で(その人の中には)天国や地獄・死後の裁きは存在していないのです。
その信じなかった方々も、実存的決断をもって「信じない」という御判断をくだされたのです。
なぜその判断を尊重しようとしないのでしょうか?
とても悲しく思います。
万人救済主義を唱える人たちは一見、人々を尊重するように見えますが、その実、人々の人権を侵害しております。
なぜならあの世にはキリストはおらず、何もないか、いたとしてもキリスト以外の者がおられると考えた人たちの認識を無視して、この人たちにも救いのチャンスがあるというからです。
真剣にこの世の生涯を生きた人々にとって、これは余計なお世話以外の何ものでもありません。
本当の宗教者なら、このような主張をなす者を心から軽蔑するでしょう。
③聖書には万人救済主義を証明する8つの聖句があるそうです。
その一つ一つは決して万人救済主義を言っていないのですが、無理やりにでも万人救済主義を証明する聖句に仕立て上げたいようです。
しかしありのパパは言いたいのです。
聖書全体が「今日、神に出会う用意をせよ。」と叫んでいると。
聖書を開いて、聖書を通読するごとに、「生きている間に、鼻に息がある間に、神を信ぜよ。」というメッセージを神から受け取るのです。
万人救済主義を証明する聖句が八つもあると言われても、「それがどうした!私は聖書全体から万人救済主義が偽りであることを証明できる。」と言うほかはありません。
3.日本でセカンド・チャンス論を唱える方のホームページには、万人救済主義の主張と共に、妄想と捏造の歴史史観に基づく誤った歴史認識が、これでもかというぐらい書かれてありました。
いわく、満州国を作ったのも、中国を侵略したのも、朝鮮を併合したのも、何ら間違ったことではない。
南京大虐殺もなかった、東南アジア侵略もなかったと、言いたい放題です。
◎この方は万人救済主義を言わないと、日本宣教は進まないと言われますが、侵略を正当化して、日本人宣教師によるアジア宣教が壊滅的な打撃を受けても良いと考えておられるようです。
どうやら神が愛されたのは、日本人だけであり、中国人や韓国人・東南アジアの人々は救われなくてもかまわない、どうでも良いと思っているかのようです。
これはキリスト教ではありません。
良く言って、日本教キリスト派とでも言うべきものです。