万人救済主義を主張する人々が必ず口にするのは、「全ての人が救われるのでなければ、神が愛であるということが嘘になってしまう」ということです。
果して本当にその通りでしょうか?
もし万人救済主義がでたらめであり、死んでから神の御前に出たとき、「そんなもんはない」と一喝されては笑い話にもなりません。
是非生きている間に、この教義が真実なのか、それとも誤謬であるのかの決着をつけておかなければなりません。
それで今日は皆さんとご一緒に、この問題をもう一度考えてみたいと思います。
(すべてのリベラル派クリスチャンが万人救済主義を信奉しているわけではないことを存じています。しかしアニミズム的世界観が支配的である我が国で、キリスト教徒がこの論から受ける影響は大きいものがあることを鑑みて、この文章をアップすることにしました。)
①神の愛を人々に届けるのは、宣教の役目です。
『神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。』[Ⅰコリント1:21](新改訳聖書)
神が権威をもって救いを宣言するのではなく、人が人へと救いを宣べ伝える「宣教」という方法を神は選ばれました。
これが神の定められたことであるのです。
②その宣教を神は私たちクリスチャンに委ねられました。
十字架でなし遂げられた神の愛を、クリスチャン達を通して人々に宣べ伝え、そして人々が悔い改めて信じることを神は願っておられます。
『神の御意は一人も滅びないで、全ての人が悔い改めに進むことです。』[Ⅱペテロ3:9]
もし教会が全ての人に福音を届け、その結果として全ての人が悔い改めに進むなら、滅びる人は一人もいないことになります。
信じる信じないは人間の自由意志にかかわることですが、少なくとも全ての人に福音を宣べ伝える義務がクリスチャンにはあります。
そういうわけで宣教こそは、神の義と神の愛を一つとするものです。
③自分たちは何もせず、滅びゆく人々を見ながら、高みの見物を決め込みつつ、「全ての人が救われるのでなければ、神が愛の御方ではないということになってしまう」と言うのであるなら、それは偽善以外の何ものでもありません。
そんなことを言う暇があったら、教会の宣教の業に参加することです。
④もし信仰をもたない人でも救われるのだとしたら、
a.宣教は無用なものになります。しかし大宣教命令は神の命令ですから、宣教が不必要なものになることはあり得ません。
そうだとすれば宣教を不要なものにしてしまう教えにこそ誤りがあると言わなければなりません。
b.神に従う者は祝福され、神に反逆する者は裁かれるという、神の御意を否定することになります。
c.正しく生きようと心がけた者も、悪を犯し放題だった者も、悔い改めなしに同じように救われるというのであれば、こんな不公平・不真実な神はいないということになります。
⑤「悪い神」という概念が彼らの中には潜んでいるのかもしれません。
その思いを打ち消すために、「悪い神」でなく、「良い神」であると思いたいがために、聖書のどこにもない万人救済主義の教えを無理やりに作り出してしまったのではないでしょうか。
もしそうだとしたら、神への歪(ゆが)んだイメージを替えなければなりません。
元々あった自分の神イメージに聖書の神の概念を混ぜるのではなく、元々持っていた自分の神イメージを聖書の神概念と全く交換しなければなりません。
⑥旧約聖書と新約聖書の両方を丁寧に読むことです。
旧約聖書は神が唯一であることを証し、新約聖書はその唯一の神が三位一体であることを証しています。
同様に神の義と神の愛という一見相反しているかのように見える神の御性質も旧・新約聖書の両方を通して読むとき、よく理解できるようになります。
⑦私たちは聖書を通してしか、神の御意を知ることが出来ません。
そうであるのに聖書に書いてないことを言うということは、自分を神の位置に置くことです。
これは自分を神にしてしまうことであり、決して許されることではありません。
はじめまして。
僕は今、ジーザスライフハウスに行っています。
個人的には万人救済論を信じたいですが、何かふっきれないものを感じて悩んでいます。
それで、ある福音派の本を読むと、地獄もそんなに悪い所じゃない、燃える火は比喩で、救われる人から見たらそう見えるにすぎないと書いていました。
また、神は人間の自由意志を尊重する為に天国と地獄にわけるので、地獄に落ちる人は落ちた方が幸せな
すみません。簡潔に述べます。
地獄もそんなに悪い所じゃないという考えがありますが、ありのパパさんはどう考えられますか?
ジーザスライフハウスに通っています。
ひろきさん、おはようございます。
コメントしてくださり、ありがとうございます。
実は私もそのように考えています(笑)。
仏教的な地獄の無間地獄とはだいぶ異なるように思います。
金持ちとラザロの記事を読むと、黄泉にいるのに兄弟のことを考える余裕があったのを見ます。
しかし肉体的な苦しみはなくても、精神的苦しみが耐えがたいほど大きいのではないかと推測しています。
生きている間に行った人を傷つける行為が、死後には傷つけられた側から見えるとしたら………………。
それこそ、地獄の苦しみではないでしょうか。しかも悔い改めるチャンスは永遠にやってこないのです。
地獄とは、そんな場所ではないかと、虫けらに過ぎない存在である私は思っています。
これからもコメントしてください。よろしくお願いいたします。
追伸:
実名ではなく、ニックネームでお願いします(笑)
ひろきさん、こんにちは。
ジーザスライフハウスについて、wikipediaで知りました。
オーストラリアのヒルソング教会の日本におけるブランチ的存在なのですね。
是非、そちらの教会の様子も教えてください。
はじめまして。こんにちは。
吉祥寺のカトリック教会に通ってます。
万人救済かどうかは神様が決める事なのでわからないのでは?
ナーガさん、こんばんは。
初めてのコメントをありがとうございます。
「私はこう考える」という時には、同時に「なぜそのように考えるのか」を述べる必要があります。
ナーガさんのコメントには失礼ながらそれがありません。
ですから私も答えようがありません。
なぜならどのような理由でそのように主張されているかがわからないからです。
よろしくお願いします。
またコメントしてください。お待ちしています。