ヨセフの見た夢

創世記37章

ヤコブの下から二番目の息子がヨセフです。
ヨセフは容姿が美しかったとあります。同様にダビデもそうだったようです。文語訳聖書では「紅顔の美少年」と書かれてあります。ありのパパがまだ若かったころ、教会学校の授業でそのことを言うと、生徒の一人が「先生もそうじゃん!」と言いました。
(私はなぜこんなことを書いているのでしょうか?自分でもよく分かりません(笑)。)

さて、気を取り直して本論に戻ります。
アダルトチルドレン特有の囚われから解放されたヤコブですが、子育てはうまく行ったでしょうか。
今日はこのことを中心に見ていきましょう。

1.ヨセフは17歳のとき、夢を見ます。

その夢は自分の束に、兄弟の束がお辞儀をするというものと、太陽と月と11の星が自分に向かって頭を下げるという夢でした。
ヤコブはヨセフだけに良い服を着せたと聖書にはあります。
果してヤコブはアダルトチルドレン特有の一つのものだけに愛を注いでしまう(偏愛)という間違いを犯したのでしょうか。
またヨセフは多くの聖書注解者が言うように思慮の足りない浅はかな少年だったのでしょうか。
初めにありのパパの考えを述べておきますが、様々な聖書注解のこの箇所の注解を読むたびに、「思慮が足りないのは誰か?」と毒づいていました。

2.夢が実現するためには、「告白する」という行程がどうしても必要です。

もし人の目や評判を気にして、「あの人は謙遜な人だ。」と言ってもらいたいばっかりに、傲慢不遜に見える自分の夢を告白しないとすれば、その夢が実現することはあり得ません。
その夢がその人個人のものであれば、それはそれで良いとも言えるのですが、もしその夢が神から来たものであり神の御意を実現するためのものであったとしたら、そうとばかりは言っておられません。
世間の否定的な反応に負けて、恐れ退くなら、「わたし(神)の心はあなたを喜ばない。」

3.告白に際しては配慮が必要。

①夢を告白すると、人々の劣等コンプレックスが引き出されるのを覚悟しておくこと。

多くの夢を持つ人々が陥る罠に、世間の反応がこわいので、告白せずに済まそうとし、告白の次の段階から始めようとすることがあります。
これはうまく行きません。
なぜなら夢を与えられた私たちが告白するということを通して、神のご計画実現のスイッチが入るからです。
神のご計画実現のスイッチが入っていないのに、人間の側で努力してみたところでたかが知れています。
これでは結局、ただの小賢(こざか)しい利口者(りこうもの)となってしまい、人生を無駄遣いすることになります。

②ヨセフは溺愛に近い愛され方をされて育ちました。

このような場合、人様のことまで考える心の視点というものがありません。
貧しく育った人だけが、貧しい人の心の悲しさを知っているのであり、片親の家庭で育った人だけが、片親の家庭で育った人の寂しさを知っているのです。
また健全な愛され方をされて育ったとしても、17歳の少年に人さまへの完璧な配慮を求めることはできません。
求める方がおかしいのです。
ありのパパは日本における代表的な聖書注解者が、その教会の信者から「うちの先生は人の気持ちが分からない人です。」と言われているのを聞いたことがあります。(これは創世記を注解した方が、その言われた方本人であるということではありません。誤解なきようお願いします。)
17歳の少年の配慮不足を責めてはなりません。

③教訓を学ぶ

ヨセフは兄弟に裏切られ、人身売買されるということから何を学んだでしょうか。
もし人のせいにしたとしたら(要するに言い訳です)、何も学ぶことはできません。
ヨセフは徹底して、この事件から教訓を学んだようです。
学んだ教訓をすぐにも活かしていることを、奴隷として売られて行った先での行動から知ることができます。

◎「神がいつもヨセフとともにおられたので、ヨセフのすることすべてにおいて祝福された。」
このヨセフとは一体誰のことでしょうか?
そうです、このヨセフとはあなたご自身であられるのです。
祝福を祈っています。

2 thoughts on “ヨセフの見た夢

  1. こんばんわ ありのぱぱさま たしかに、この箇所は 日曜学校の教材などでもヨセフは賢い少年ではあったが 天狗になっていたので 父ヤコブからも叱らた との解説が多いですよね‥
    しかし おっしゃるように 兄たちに 穴に捨てられ、うられたときに 神さまのご計画のスイッチが入った ことはたしかです。

    ヨセフに保身の知恵があり 沈黙していれば神さまから、エジプト行きの切符も もらえませんでしたね。

    エジプトでは毎日、一人祈祷会を もたれたとおもいます なんで どうして ぼくがこんなめに あわなあかんねや、あのあほの兄貴らのためにと訴えられたと 推察致しますが 身に起こった不幸が のちにイスラエル民族の 救済のためであったことを 知るまでには相当な 時間が、かかったものとおもわれます

    幸は神のみ手 不幸は悪魔から と考えがちですが このヨセフの場合は 幸も不幸も神のみ手の中にありますよね

    いま トラブルの真っ最中 試練の直中 なんでこんな場所にわたしが、祈っても祈っても 応答がないと 感じられている 兄弟姉妹が(ぼくも含めて) ヨセフのように、 災いの中にも主は生きておられる そのことを体験できますようにと祈ります


    「今わたしを、ここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に神なのです」
    いいかっこではなく、本心から こう言えたら いいなあ(笑)

  2. 岡田さん、こんにちは。
    コメントありがとうございます。

    「今私を、ここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に神なのです。」本心から言えたらいいなあ。

    すでに言っておられるではありませんか。
    そのような生き方を願うこと、そのこと自体がすでに告白です。

    私もいとも小さき者としての使命を全うさせていただきたいと思います。
    ともに励みましょう!

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