エクソダスは可能か?

エクソダスって何だす?(笑)
エクソダスとは、奴隷の民であったイスラエル人がエジプトから脱出したことを指す言葉です。
現代・日本では「既存の教会はもうダメだからエクソダスすることが唯一の道である」と教える人がいます。
今日は皆さんとご一緒に、このような主張が何処から出てくるのかを考えてみたいと思います。

1.脱出するほかはないと言われた教会と、脱出を受け入れる側の教会に違いはあるでしょうか?

①教理面での違いはあるでしょうか?

両方とも聖書信仰というか、福音主義キリスト教です。
ということは、どちらも基本教理は同じということです。

②どこが一番違うかというと「自分たちの教会は他の教会とは違う」という認識をもっていることです。

このような自己認識はどこから来るのでしょうか?
カルト化した教会を見ると、一般的に言えることは、カルト化するきっかけは「自分は他のものとは違う」という自意識です。
この自意識は、この世的なエリート意識と、キリスト教カルビニズムの予定論の中にある選びの思想とが、奇妙に結びついて出来たもののように思えます。

2.害はないか?

①「まぁ、彼らの主張にも一理あるから、言わせておけばいいんじゃないの」と言う方もおられます。

本当にそうでしょうか?
既存の教会に幻滅を感じ「こんなはずじゃない。どこかに聖書的な教会があるはずだ。」と思っている人々にとって、彼らは魅力的にうつります。
一般の教会が一生懸命伝道して救いに導いたクリスチャンを、カルト教会が幻影を振りまいて引き寄せているだけでなく、その彼らのうちの少なくない人々が傷ついているとしたら黙認してはなりません。

②カルトの本質とは何でしょうか?

カルトと言うと、一風変わった教えを奉じているかのような印象がありますが、そうではありません。
そのような教会はセクトと言います。
ではカルトの本質はどのようなものでしょうか。

a.牧師と信徒の支配関係が強固である。

教えていることは聖書に忠実であり、言っていることは至極もっともであることが多いのです。
その裏で牧師によるカリスマ的支配が行われているようです。
ですからゲスト・スピーカーとして何回か呼ばれて行ったぐらいでは、真実を見抜けないのもやむを得ないかもしれません。

b.微妙に軽いノリが支配している。

分からないことはなく、全てが明らかにされているという建前が支配しています。
この建前の前では、メンバーは自分の問題や教会の問題を口にすることが出来ません。
普通の教会ですと、教会やメンバーに問題があることが当たり前のことであり、むしろそれを解決するために教会は存在しているという理解です。
これに対してカルト化した教会では、問題が存在することは許されないこととなります。

c.自分たちにも問題があることを認めようとしません。

聖書は入信した後、カウンセリング的なアプローチによって、個々の問題を解決するようにと教えます。
しかし彼らは自分たちの教会は完全な教会だから、自分たちには問題はないとでも言いたいようです。

一般的な教会ですと、罪人同士の集まりという意識がありますから、心を百%開くということはありません。
ここまでなら良いかな、ここまでなら平気かな、と様子を見ながら少しずつ心を開いていきます。
しかしカルト化した教会では、指導者は完全であり、問題がない存在ですから、心を開かない方がおかしいとされます。
それで無理やり心の扉がこじ開けられます。
本当に心の傷が癒されていれば良いのでしょうが、信徒の心の扉を強引に開くということの中に、人を支配したいという欲求や、自分は力のある存在であるという思い込みがあるのを見ることができます。
このような状態では、信徒は深刻な心的外傷を受けることは必至です。

③あるカルト教会の被害者が2.chに自分が巻き込まれた事件の書き込みをしていたところ、所属していた教会の牧師が書き込みを始めました。

その書き込みにはその被害者の方にかかわるトラブルの内容が詳しく書かれていました。
この行為に対して、被害者の方は沈黙せざるを得なかったようです。
普通、牧師やカウンセラーの立場にあるものが、信徒やクライアントの相談内容を誰かに漏らすということはありません。
それがこのケースでは2.chという誰の目にも触れることができるインターネットの掲示板に書き込まれました。
ありのパパはこれを見て、この教会がカルト化していることを確信しました。
告発に対して異常な反応をするのは、カルト教会に共通した特徴であるように思います。

3.それでも彼らに害はないと言えるでしょうか?

①異端と呼ばれるエホバの証人も、日本の教会は偽物であり、エクソダスするようにと勧めています。

彼らの教理は歴史的キリスト教のものではありませんし、聖書の教えとは根本的に異なっています。
そんな彼らが教会を指して、間違っているとか、エクソダスするようにというのは、ある意味では筋が通っています。
しかし基本教理が既存の教会と同じであるにもかかわらず、既存の教会から脱出するように教えるとは、一体どういうことでしょうか?
まさにこのところがカルトであることの印です。

②そんな彼らであっても、具体的な批判には、耳を傾けざるを得ないでしょう。

a.エクソダスの主張の根拠はどこにあるのか?
b.自分たちを他の日本の教会とは違うと主張する根拠は何か?
c.深刻な人権侵害の事例について、どのように弁明するのか。

◎彼らが悔い改めるべき点は悔い改めて、主のエクレシアに戻ってくることを願っています。

2 thoughts on “エクソダスは可能か?

  1. パパさま 今晩は。
    エクソダスて なんだす?

    エクソダス関連の記事 見つけました。
    120年前のカールヒルティ氏の10月4日の日記で このような説明が なされています…

    現代のように 教会も国家も我々に信仰を、強制できない時代には 信仰に全く必要でない 一切の形式を離れて直接 キリストに近ずくことが できるのではないか 別段、親戚関係 (既存教会のこと) に入らずとも、今 生きている あの人に(イエスさまのこと) 近ずくことが できるのではないだろうか、キリストに絡み着いている(宗教的慣習のこと) 余分な一切のものを捨てて。


    謂わんするところは理解できます。ほんとこの2000千年いろいろありましたからね、すったもんだ、ゆうたいわんの、掴み合いに殴りあいと トラブル満載でした、現在もそうです…

    しかし神さまは、そんなエキサイティングな状況に眉をひそめつつも更新、更新、また更新を続けられ今日までその存在を許されキープされて、こられました。
    教会のオーナーは神さまです、消滅する も しないも 生かすも殺すも 主のみこころです。
    その形態を、色々 変化変容させながらも キリストの再臨の日まで 主はご自分の教会を存続させられると おもいます。


    また既成教会には ナザレの一派以来、宣教団体としての役割が与えられ、神の家族として共に礼拝を捧げ、加えるに信徒間の相互扶助、貧民救済の働き などは 現在も続行中であり、自分たちも この活動の一助でありたい と願うことは キリスト者として ごく自然な反応です。

    今、属している 教会、会衆が 著しく 非聖書的でなければ、そこは神が 私たちに備えられた 最善の場所である そお わたくしは信じております。

  2. 岡田さん、こんばんは。
    コメントをくださり、ありがとうございます。

    仰る通りであると思います。
    このような問題が出てくる背景にはカルト教会の存在があります。
    カルトの脱会者が完全にいやされて、主の教会に名実共に戻ってくることを願っています。
    そうでないとカルトの二次被害とも言うべきことが起こりますから。

    またコメントしてください。お待ちしています。

    追伸
    ブログソフトは、コメント者をメールアドレスとニックネームで識別しています。
    それで岡田さんが、新しいアドレスとをお使いになられるたびに新規のコメント者として認識いたします。
    岡田さんさえよろしければ、同じメールアドレスを書き込んでくだされば幸いです。

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