人間というものはつくづく因果(いんが)なものであると感じます。
なぜならうまく行くと傲慢になり、行き詰まるとすぐに凹む(へこむ)からです。
失意のどん底で、今度こそ傲慢にならないと誓ったはずなのに、どうしてうまく行き始めると、すぐに増長してしまうのでしょうか。
今日は皆さんとご一緒に、その訳を探ってみたいと思います。
1.どのような自己認識を本音の自分は持っているか。
①失意のときの誓いは当てになりません。
「もう金輪際、~しない。」というセリフにどれだけ多くの配偶者や友人がだまされたか分かりません。
どうしてこのセリフに説得力があるかというと、言っている本人も言っているときは嘘偽りのない気持ちで言っているからにほかなりません。
しかし時間が経つと、気が変わるのです。
これに例外はありません。
気が変わる人が悪い人で、変わらない人が良い人ということはありません。
なぜなら皆、気が変わるからです。
②ではなぜ気が変わってしまうのでしょうか。
それは心の奥底で「自分は大したものである。だから自分には神の助けは必要ない。」とのセルフイメージを持っているからです。
しかし失敗や行き詰まりを経験すると、本音のところで抱くセルフイメージを維持するのが困難になります。
なぜならそんなに立派な存在であるなら、失敗や行き詰まりを体験するはずはないからです。
それでどうするかというと、本音に蓋(ふた)をし、蓋の上に重しを置きます。
この重しとは、体験した失敗であったり、行き詰まりであったりします。
そうやって本音を封印し、現実の自分にふさわしいセルフイメージを身につけます。
これを人々は謙遜と呼んだりします。
このままで人生が進んでいくなら、「人生なんてちょろいもんだ」と言うことも出来るでしょう。
しかしそうは問屋が卸しません。
なぜなら謙遜にもう一度挑戦を始めると、だんだんと現実が好転していきます。
そうすると、失敗や行き詰まりという名前の蓋の上の重しが、不思議にもだんだんと軽くなっていきます。
そしてついに、本音のセルフイメージを押し隠した蓋が、内側から圧力を受けて取れてしまいます。
それで押し隠したはずの「私は対したもんだ。神の助けなど必要ない。」というセルフイメージがまた人格の表面に出てくることになります。
これが人間の心のからくりというものです。
③傲慢な自分が表に出てくると、せっかくうまく行き始めたことも、元の木阿弥(もとのもくあみ)です。
人間は生きている間中、謙遜になったり、傲慢になったり、うまく行ったり、失敗したりと、同じところを何回もグルグルと回っているメリーゴーランドのようなものかもしれません。
2.ではどうしたら、この悪循環から解放されることが出来るでしょうか。
①自己認識を書き換える。
たとえばアル中なら自分は酒に対して無力であると認めることです。
歳が若かったり、万能感が強いと、これは難しいことです。
しかし、どうしても本当の自分を認める必要があります。
「自分は大したものである。神の助けは必要ない。」という自己認識を押し隠すのではなく、「自分は罪に勝てない者である。神の助けがどうしても必要である。」という自己認識に書き換えるのです。
②毎日、本当の自分を認め続ける。
ある日どこかで本当の自分を認めたと言うことは、問題を解決する鍵にはなりません。
そんなものは、何の役にも立ちません。
ただ私たちに必要なのは、無力である自分を、「はい、私はそのような者です。」と毎日認め続けることです。
③無力である自分を認めたら、神様になら自分を変えることが出来ると信じ、自分の意志と生き方を神の御意に従わせる生き方が可能になります。
3.正直に生きるとは、こうありたいと願う空想の自画像ではなく、本当の自分の姿を認めることです。
クリスチャンによく見られるのが、神が与えてくださる助けを自分のセルフイメージの一部分にしてしまうという誤りです。
これは本音のところに隠し持っているセルフイメージが、本当は未信者のときと全く変わっていないということを表しているのではないでしょうか。
このような人の特徴は自分の弱さを誇るどころか、告白さえ出来ないということです。
○チョー・ヨンギ先生が、何かの表彰式のときに、他の牧師からおべんちゃらを言われたとき、周りの人々は「これは誉め殺しか?」と心配したそうです。
しかし自分がどれほど弱かったか、どれほど失敗を繰り返してきたかを、皆の前で語ったそうです。
最後は表彰式に出席していたご自分の家族と共に、肩を抱き合って号泣されたそうです。
これが弱さを誇るということです。
◎与えられた一日一日を、正直に生きたいものです。
これだけが様々な束縛から解放される道、すなわち律法の呪いから解放される道です。
祝福を祈っています。