心の傷と否定的態度の関係(その2)

過去に受けた傷を癒していこうとするとき、陥りがちな危険があります。
それは傷が癒されるまでは現実に対してチャレンジしないということです。
即ち自分がチャレンジしないことを(現実から逃避することを)、自分が持っている心の傷のせいにしてしまうということです。
これはいけません。
なぜなら私たちは皆、関係性の中で生きています。
ひとりぼっちで生きている人は誰もいません。
責任を果たさなければならない人々がおり、仕事があります。
それらのものに対して積極的に取り組んでいかないことは、人生の無駄遣いです。

自分自身が養育の義務を果たさない無責任な親から傷を受けたにもかかわらず、自分の子供たちに対して同じようなことをしてはなりません。
また、現実の生活にチャレンジして行く中で、心の傷に取り組んでいくとき、癒しの業は促進されます。

2.過去の傷をどのようにして癒していけば良いか。

①まずどんな傷があるかを、正確に認識することが先決です。

これはどういうことかと言いますと、親に頭をたたかれて育った人は、成人してから親にたたかれなくなると、今度は自分で頭をたたくようになるということです。
「いや~、私なんか、そんなことないです。」と言いながら、左手で自分の後頭部をたたいている人がいますが、それです。
単に頭をたたく癖から解放されるだけなら、ただ気を付けていればそれで済みます。
しかしもっと深い問題である場合は、気を付けるだけでは解決できません。

②その一つ一つの状況の中に、イエスが私と共におられたことを再確認します。
傷を受けた場面の中に、イエス様が私と共にいてくださったことを再確認します。

人がなぜ傷を受けるかというと、助けてくれる人がなく、一人ぼっちで試練に体面しなければならないということに、耐えきれない悲しさを覚えるのです。
ですから、「そうではなかった。あの時にもイエスが共におられて私を見つめていてくださった。私はあの時一人ぼっちではなかったのだ。」
このような事実にもとづいた正しい認識を持つことが、「今」を生きる私たちに現実に直面するための力を与えるのです。
過去の傷を癒すかどうかは、どちらでも良いことではありません。
昔の自分が傷ついたとき、イエスが共にいてくださったのを知ることによって、昔の傷が癒されるだけでなく、過去にいてくださったイエスは「今」のときにも私と共にいてくださるという信仰理解につながるからです。

③同じ傷を受けないようにする。

親に愛されていることを信じることが出来ずに育った人は、成人してからは自分にとって大切な人を傷つけ、その人が自分を愛さないように仕向けます。
そして大切な人が自分を愛さなくなると、「やっぱり、人は自分を愛してくれないんだ。」と自分自身に納得させるのです。
このような一文の得(いちもんのとく)にもならない、馬鹿な一人芝居を止めねばなりません。
この一人芝居をしている限り、癒されていくことはありません。
なぜなら過去の傷を癒している一方で、自分が自分自身に対して新しい傷を与えているからです。
このようなことを「思考のからくり」とか「間違った思い込み」と呼びます。
これの難しいところは自分では気づいていないことです。
ですからどうにかして自分の持っている思い込みに気づく必要があります。

これは一般的に言って、光の中を歩んでいくとき、聖霊なる神が「気づき」として与えてくださいます。
歩んでいるときであり、座り込んでいるときではありません。

前向きに生きていこうと心がけるとき、少しずつ少しずつマイナスの面が小さくなり、プラスの面が大きくなっていきます。
やがて心に受けた傷が宝物であったことを知るときがやってくるのです。
祝福を祈っています。

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