ありのままと、そのまんまとは違うことです。
たとえば朝起きて、顔も洗わず、髪もとかないのは、そのまんまです。
しかし朝起きてから、神の恵みに感謝して、顔を洗い、髪をきれいにとかすのは、ありのままを生きるということです。
1.どのようなセルフイメージを持っているかによって、違いが出てきます。
①例えばセルフイメージの低い人がよく言うことに、次のようなものがあります。
「私なんて、どうせ大したことないから(笑)」
しかしそうではありません。
『あなたはわたしの目に高価で尊い』と言われたのは、私たちをお造りになった神の言葉です。
神があなたを『高価で尊い』と言われているのに、あなたにどんな資格があって「私なんか駄目だから」などと言うのでしょうか。
あなたは神より偉いのでしょうか(笑)
②自分の意志と生き方を神の配慮に委ねるとは、自分の間違った思い込みを神の考えに合わせて修正していくことです。
中には委ねると言いながら、頑固に自分の考えに執着するクリスチャンもおられます。
しかしそれでは信仰は看板倒れに終わり、神の恵みと力があなたの人生に流れ込むことは決してありません。
もし力のない信仰生活に別れを告げて、神の恵みの中に生きる信仰生活を体験したいなら、自分の思い込みを捨てて、神の御思いを自分の新しい思いとする必要があります。
これが霊的な礼拝ということであり、全き献身ということです。
全き献身とは、歯を食いしばって、自分に出来ないことをやろうとすることではなく、否定的なセルフイメージを神が与えてくださるセルフイメージへと修正していくことです。
③弟子訓練は「ありのまま」と正反対の概念です。
訓練によっては、人は変わることができません。
人が変わるのは、ありのままを受け入れられたときです。
それを訓練によって変わることを強制されると、本当の自分を抑圧し、期待される姿を演じるようになります。
これは虚しい人生でしかありませんし、自分と人と神を偽ることです。
もし本当に神の御姿に変わりたいと願うなら、演じることを止め、本当の自分を生きることです。
そこから神の御業が始まります。
2.演じるセルフイメージと、真のセルフイメージ
①あなたは高価で尊いと言われると、本音ではそう思っていないのに「はい、分かりました」と答える方がおられます。
いかにも日本人的と言えるかもしれません。
仕方ない面もあるかもしれませんが、これではその方の生活に神の恵みが及ぶことはありません。
なぜなら演じることと、本当にそう思うということの間には天と地ほどの差があるからです。
②ではどうしたら良いのでしょうか?
まず第一にそう思えない自分を認めることです。
この部分でボタンの掛け違いがあっては、後々の信仰生活が全て無駄になってしまいます。
「金輪際(こんりんざい)自分が高価だなんて思えない」と自分の思いをはっきりさせることです。
「それでいいんですか?」はい、それでいいんです。
後は神様がよくしてくださいます。
③自分は高価だとちっとも思えないけれど、神はそう言っておられる。
わたしの考えを無理やり神の考えと同じにしようとすることを、我力で生きるといいます。
では我力ではなく、神の力で生きるとは、具体的には何を指すのでしょうか?
それは「私は自分が高価だなんて思えませんが、あなた(神様)が高価であると言っているのですから、私は自分が高価な存在であると認めます」と毎日告白することです。
そうしていくとき、自分自身のセルフイメージが向上しているのに気が付くときがやってきます。
「そんなうまい話があるんですか?」はい、あるんです。本当です。
3.「ありのまま」が一番大事なこと
①自分の必要はありままということ。
ありのままとは、どういうことでしょうか。
これは自分が罪人であるということを認めることにほかなりません。
②人々の必要もありままということ。
人々は仮面を着けて、良い人を必死で演じていますが、いつか力尽きるときがやってきます。
キリストの十字架なしには、その時は破滅のときとなりますが、自分自身をありのままに受け入れることが出来るなら、それは新生の時となります。
③日本人が一番分からないことが、ありのままということ。
日本社会ぐらい、ありのままから遠いところで社会生活が営まれている社会はありません。
それで日本人は生れてからこの方、ありのままで受け入れられるということを体験したことがないどころか、聞いたことさえないので、ありのままを受け入れてくださる神の愛と言っても、チンプンカンプンなのです。
◎では、どうしたら良いのでしょうか?
それは既にありのままを愛された人が、周りの方々をありのままに受け入れることによって、本当の愛がどういうものか体験していただくほかはありません。
「論より証拠」という言葉があります。
人は愛が理屈では分からなくても、体験するなら愛を実感することが出来ます。
その結果、人々はあなたにこう言うようになります。
「私には神様が分からないけれど、あなたの信じる神様は本物の神様だと思うから、私もあなたの神様を信じる。」
祝福を祈っています。
「ありのまま受け入れること」について、さらに考えてみました。
ありのままぱぱさんがおっしゃることに、なるほどその通りだなと思って読ませていただきました。
でも、最後にあった次の部分に対しては首をかしげました。
「日本人が一番分からないことが、ありのままということ。日本社会ぐらい、ありのままから遠いところで社会生活が営まれている社会はありません。それで日本人は生れてからこの方、ありのままで受け入れられるということを体験したことがないどころか、聞いたことさえないので、ありのままを受け入れてくださる神の愛と言っても、チンプンカンプンなのです。」
・・・・はたしてそうでしょうか。
日本人であっても何人であっても、「ありのままに受け入れる」ということは、家族の中で体験していると私は思います。
家族に病気の人がいるからといって、それを帳消しにはできません。
受け入れ、看病し、ともに生活します。自分の子供が反抗期だからといって家を追い出しはしません。
家族に寄り添い、ゆるしあって生きていきます。
どの社会、文化であれそのままうけいれるという神の愛は人類共通に理解できる観念だと思います。
「ありのままにうけいれる」という実践は、私たち日本人にとっても、かけはなれたところにないと思います。
周囲の人を家族の思いをもって接していくことにその秘訣があるのではないでしょうか。
ときに受け入れるのに難しく感じる苦手な相手がいます。
改心前、キリスト教徒を迫害していたパウロに主イエス様がとった態度から学ぶことができますね。
イエス様はパウロに「なぜ私を迫害するのか」「とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」とおっしゃいました。
・・・・イエス様は、なぜするのかと相手に寄り添い、また、「あなたにとって」何がよいのかを示し、パウロに新しい希望と使命を与えました。
さすが主ですね。
そこには相手を責め裁く言葉はないのですね。
何と愛の方でしょうか!
私も反省多々あります。腰パンが受け入れられないなんて・・・。
気に入らない相手を受容することは、聖霊様に力を与えられることによって、初めて可能になることだと思います。
「聖霊様、歓迎します。愛する力を下さい。愛することができると信じます」と祈って生活していきたいと思います。
日本は確かに、「長いものにまかれろ」「世間体が・・」が根強い社会です。
でも、日本の文化や日本の社会をネガティブにとらえるのではなく、日本の社会、日本の文化そのものを受容し、そこに神の愛をときはなっていくことができたらすばらしいと思うのですが。
それができればリバイバルも夢ではないのではないでしょうか。
「江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた」古川愛哲を読みました。
著者はクリスチャンではありませんが、興味深い本でした。お勧め本です。
ありのままぱぱさんコメントさせていただき感謝します。
コルさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
さて、最後の部分だけは受け入れがたいというご指摘ですが、ということはあとの部分は丸ごと受け入れくださるということでよろしいでしょうか?(笑)
「良かった。それでこそコルさん」と独り合点しているありのパパです(笑)。
どうぞ最後の部分はわたしの個人的見解ということで、よろしくお願いいたします。
日本という言葉で一括りにすることは、余り意味がないことだと思います。
なぜなら何千万という家族がおり、その中にはありのままを受け入れあって生きているご家族もあれば、子供を虐待し、死に追いやっている家族も何万とあるのです。
キリスト者の責務は日本社会をキリストの愛で変えていくことにあると信じています。
またコメントしてください。お待ちしています。
「キリスト者の責務は日本社会をキリストの愛で変えていくことにあると信じています。」
ありのままぱぱさんのことばにアーメン!その通りです!
何か心通じてうれしいです。
明日は喜びの礼拝ですね。よい日曜をお過ごし下さい。
ではまたいつか。
コルさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
今度、コルさんに私のことをありのままに受け入れていただくことにいたしましょう(笑)。
明日の聖日に神様の豊かな祝福がありますように。