スノーボーダーの國母和宏さんが服装問題でマスコミに非難されています。
ありのパパの写真を見ての感想は「カッコええな。似合ってるな。」というものでした。
しかしある一部の人たちはそうではなかったようです。
それで今日はこの問題について、問題の核心は何かということを考えてみたいと思います。
①マスコミは、他に報道することがないのか?
マスコミは、国民の声だから報道せざるを得ないと言います。
では民主党小沢幹事長の検察取り調べ事件の中で秘書の妻を令状なしに何十時間も拘束した犯罪は、なぜ報道しないのでしょうか?
結局、事例ごとに報道するものと、しないものを選んでいるのです。
そうであるなら、一人の若者の服装の問題など、報道する方がおかしいと言わざるを得ません。
②税金が使われていると言うが、それはメダルを取るためであり、きちんとした身なりをさせるためではない。
そういう意味では、メダルを取れなかった競技の事務局に対して税金の無駄遣いであるという批判は当たってはいますが、今回の件は全くの的外れです。
③自分が嫌々守っていることを、人が守っていないと、猛烈に腹が立つ。
これが國母選手を見て腹を立てた人たちの真の動機ではないでょうか。
右を見て、左を見て、自分が人と違っていないかを常に気にするのが、村社会意識です。
日本社会の後進性として指摘されていることです。
このようなことは建前では分かるのですが、本音では決して許容することが出来ないのです。
なぜなら自分が道徳(この場合は服装規範)を守っているのは、好き好んで守っているわけではなく、人の目を気にしているからに過ぎません。
要するに自分が嫌々守っていることを、守る気などさらさらない人を見ると、「こいつ~、俺がこんなに嫌々守っているのに、お前も守るんだ~。」となるわけです。
誰もあなたに守ってくれなどと頼んでいません。
あなたが人の目を気にして勝手に守っているだけです。
それを自分が守っているから、お前も守れなどと言うのは単なる押し付けでしかありません。
(犯罪を犯してはならないという規範は守らなければなりません。なぜなら守らなければ社会に不利益が及ぶからです。しかし服装規範を守らなくても、誰にも不利益を及ぼしません。)
④マスコミの手のひら返し。
ビザなしで太平洋横断をやってのけた堀江健一という方がおられます。
日本のマスコミは初めはビザなしということで犯罪者扱いでした。
それがアメリカで堀江健一さんが英雄扱いされていることが伝わると、一転してべたぼめし始めました。
今回も國母和宏選手が優勝でもしようものなら、きっと手のひらを返したように英雄扱いすることでしょう。
しかしマスコミは次のことを知らなければなりません。
国民はあなた方を見ていますよ。
今はけちょんけちょんに貶(けな)しているのに、優勝を機に手のひらを返したように英雄扱いを始めたりするなら、やはり日本のマスコミは国民から「マスゴミ」と言われるのも仕方ない存在ということになるでしょう。
⑤出る杭は打たれるが、出すぎる杭は打たれもせず。
日本社会では「出る杭は打たれ」ます。
しかし「出すぎる杭」となるなら、今度は一転して「寄らば大樹の影」となります。
アメリカ社会ですと、若い人々には寛容ですが、大人にはきびしい道徳律を求めます。
日本社会は丁度これと逆であり、若い人々には厳しいのですが、大人には甘いのです。
ですから打たれ強くあることが大切です。
國母和宏選手は弱冠21歳で、すでにキャリアが17年あるそうです。
今は叩かれていても、出すぎる杭であり続けるなら、必ず「寄らば大樹の陰」となるときがやってきます。
その時を信じて、負けるな!へこたれるな!
[これをお読みなられた方へ]
マスコミは盛んに國母和宏さんの記者会見の中の「反省してま~す」の部分だけを取り上げています。
そのことがまた人々の怒りを増幅させています。
しかしyoutubeにアップされた記者会見の様子は、どう見てもそのように見えるものではありませんでした。
若者らしい言葉づかいではありましたが、ふてくされたところはありませんでした。
それをわざとらしく事実を脚色して報道することを捏造報道というのではないでしょうか?
どうぞ皆さんも、マスコミが流す情報を鵜呑みにしないで、ご自分でお確かめになることをお勧めします。
そうするなら、マスコミが報道しなければならないことが山ほどあるにもかかわらず、そこら辺に転がっている話題を持ってきて、好き勝手に脚色を施している実態がお分かりになるのではないかと思います。
自民党国会議員の河野太郎代議士も公式サイトにてこの件について見解を表明しておられます。
どうぞ、ご参考になさってください。
ありのままパパさん、こんばんは。
この話題には私も注目しました。
でも、ありのままパパさんの腰パン擁護のご意見とは全く反対の意見をもっています。
隣人愛を実践する上で、TPOをわきまえるということは、重要なことだと思います。
様々な価値観をもっている人々の間で、互いの価値観を尊重しあい、生活していくことは、大人に成長していく途上で学習していくべきことだと思います。
オリンピックという公的な場面で、物議をかもすであろう腰パンを、あえてすることに対して、私は疑問を持ちます。
学校の世界における制服の着こなしの場合でも、反骨精神や個性を「ルーズな制服の着方」という形で表すことに、学生たちの未熟さを感じます。
他者とのかかわりの中で生活していくことを意識し、隣人の生き方や、社会の規範意識を尊重できるようになっていくことは、社会的に成熟していくということでもあると思います。
少なくも、腰パンに対しては「囚人服からのルーツ」とか「ルーズなイメージ」などという考え方、感じ方を持つ多くの人々がいます。
その中ではやはり、日本の代表選手たる者はTPOをわきまえてほしいものだと思いました。
パウロは、律法主義を排除しました。
肉体だけの割礼を強要しようとした者を「犬に注意しなさい」とまで嫌いました。
ところが、彼は、あえて、テモテに割礼を施し、同労者として福音を伝えようとしました。
割礼のある者たちの価値観を尊重し、その中で福音を伝えようとしたのです。
パウロの隣人愛の実践の一つだと思います。
他者や社会が意識されるとき、制服やユニホーム等の着こなしは自分だけのものではなくなるのではないでしょうか。
コルさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
○同じペンテコステ派クリスチャンとして、率直に応答させていただきたいと存じます。
まずはじめにコルさんのコメントを読ませていただいた感想は、私たちが國母和宏さんに対してどのように接するべきかという視点が全く欠落しているということです。
國母選手自身がどのような対応をしなければならないかについては、未信者にまかせておけば良いのではないでしょうか?
○そのような意味で今日の文章はマスコミをはじめとした私たち国民の側の有り様について語ったものです。
人が育つのは、ありのままを受け入れられたときです。
キリスト教の第一の徳目は寛容ということです。
寛容とは自分と違う人を受け入れるということにほかなりません。
國保和宏さんが人間として成長できるのは、彼の服装を含めた全部を受け入れられたときです。
○他者への配慮は動機が愛であるときだけ有効です。
動機が人の目を気にする村社会意識から出ているなら、それは配慮とは言えません。
他者への配慮は自由意志から出てくるものでなければなりません。
無理やり求めるものでは決してありません。
○自分と違う者を排除するとき何が起きるでしょう。
内村鑑三は、「みんなが天皇礼拝をするのにお前はしない」ということで教職を追われました。
美濃ミッションの日曜学校生徒は「みんなが神社参拝しているのに、お前が神社参拝しないのはおかしい」と言われ、マスコミの排撃キャンペーンに会いました。
ホーリネス教会は、キリストの文字通りの再臨を信じたことで「みんなが天皇を神と信じているのに、お前たちが別の神を信じるのはおかしい」とされ、敗戦の日まで獄屋に留め置かれました。
「みんなと違うからおかしい」ということで誰かが攻撃されるとき、キリスト者としてどのような対応をとることが御心に適ったことでしょうか。
私はバラクのロバの叫びを聞く者でありたいです。
またコメントしてください。お待ちしています。
ありパパさまこんにちは。わたしも写真 拝見致しました。
これは、もし自分の身内ならばと常識の線で考えれば意外と簡単な話しではないでしょうか。
わたしの甥もよく似たファッションですよ イケてます、そして甥には こう言います。
私服のときは、もっとイケ ためらうな!
しかし君が銀行員の制服を着用するときは ネクタイは首で締めろ、ズボンはキチッと履け 二十歳過ぎたら公私のケジメはチャンと せい と
もし韓国で、これをやれば非国民です、あの国ではオリンピックは公の国事だからです。
日本で良かったですよ、寛容に見る人も、沢山いますから。
国母くんは将来ある青年です、朝青龍とは 違います 。
これ以上のパッシングは止めて 勝っても負けてもみんなでハーフパイプ応援しましょう。
岡田さん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
今回の件で大騒ぎしているのは、韓国嫌いで韓国の悪口ばかりを言っている人と同じ人々ではないでしょうか?
はからずも韓国を中傷する人々は、日本の中で誰よりも韓国人に似ていることを証明したことになります(笑)。
仰る通り、韓国人があれをやったら、大変な騒ぎになると思います。
韓国人のラッパーを見たことがあるのですが、みんなちゃんとしているのです。
ちゃんとしているラッパーを見て、逆に違和感を覚えました。
日本人であって良かったと思いました。
日本は平安時代から大陸から政治的亡命者を受け入れてきた歴史があります。
聖書にある、日の昇る国へ、多くの人々が「逃れの町」としてやってきました。
日本人は、そのような人々を「色々な人がいていいよ」と寛容に受け入れてきました。
これが同じ日本人でありながら、どう見ても中東の人にしか見えない人がおられることの理由です。
願わくは、「いろんな人がいていいよ」という良き伝統を守っていきたいと思います。
またコメントしてください。お待ちしています。
ありのままパパさんこんばんは。
日本中で熱く語れそうなテーマを投げかけてくださり感謝します。
今の学生たちとも話してみたいなあとも思います。
内村鑑三が拝礼を拒否したことは彼の信仰の根幹に関わる重要なことだからでした。
そのことと、今回のTPOをわきまえることについての議論が同次元で行われることに疑問を感じます。
内村鑑三だけでなく、キリスト者は信仰の根幹を否定することにノーというべきです。
千差万別な個人の嗜好の問題のレベルではありません。
さて、主イエス様が話した、たとえ話の中に、披露宴で礼服を着てこなくて追い出された人の話があります。
もちろんこの話は十字架の贖罪を信じ、義と認められた人に与えられる義の衣を意味しています。
このたとえが成り立つ前提には、イエス様がTPOを認めていたという事実があります。
テモテに割礼をうけさせたパウロは「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです」と述べています。
以上のことから、
1,TPOをわきまえることは聖書的。
社会の文化や習慣が信仰の根幹にかかわらない場合はむしろ、相手への愛の配慮から大事なことである。
2,ユダヤ人にはユダヤ人のようになったパウロやイエス様は、腰パンの人々を愛し、獲得するためには、彼らの文化を認め、腰パンになることをもいとわないことでしょう。
しかし、結論からいえば、オリンピックは私的な場でなく公的な場ですから、着こなしまでを制服と考える通常の社会通念の中では、やはり不適切であり、愛にかけた自己中心的行動であったと考えます。
私的な場面では、「どうぞご自由におやりください」と申しましょう。
キリスト者は寛容な態度を示すべきだというご意見には賛成できません。
私の愛する子供らであっても、愛するゆえにその未熟さ軽率さを注意、叱責します。
彼には今後の成長を期待したいと思います。
コルさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
真摯なご意見を感謝いたします。
このような文章を書いていて、自分でも「何を偉そうに、自分も出来てないくせに」と思います。
自分の愛のなさを十分承知しつつ、目指すべきことを励まされている目標を仰ぎ見て、コメントに返答させていただいていることをご了解ください。
○イエスは、嫌われ者であった取税人のザアカイに「今日あなたの家で食事し、泊まることにしている(笑)」と言われました。
この言葉を聞いてザアカイはどんなに慰められたことでしょうか。
これはザアカイが悔い改めて善人になったあとに言われたのではなく、罪深いそのままの姿の彼に向かって言われたのです。
そうであればなおさら、イエスに救っていただいた私たちも、イエスにならうべきではないでしょうか?
○今、目の前に嫌われ者のザアカイならぬ國母和宏さんがいたとしたら、コルさんは何と声をかけられますか?
イエスのように「あなたの家で食事して泊まることに決めている」と言われますでしょうか。
それとも「何だその格好は!出直して来い」と言われるでしょうか。
「いとも小さき者にしたのは、わたしにしたことである」と言われるイエスの御前で、私たちの行動が問われております。
○コルさんの言われていることを聞いていると、まるで「良くなったら、受け入れてやる」と言っているようにも聞こえます。
そうではなく「あなたが良くても悪くても、どのようであったとしても私はあなたを受け入れる」というのがキリスト信仰ではないでしょうか?
辛辣なことを書いてしまいましたが、ご気分を害されましたら、なにとぞご容赦くださいませ。
またコメントしてください。お待ちしています。
ありのままぱぱさん、こんばんは。
ザアカイが愛され、主が彼のもとに来られたように私の中にも主は来てくださった。
神の前にありのままうけいれられる、その通りです。
では、そのキリスト者はどのように社会生活を営んでいくべきでしょうか。
「幼いキリスト者よ、あなたはすべてが受け入れられている、だからあなたのほしいまま、ありのままに生きていきなさい」とは若者にアドバイスしないのではないでしょうか。
身近な人であればあるほどです。
毎日、集団の社会の中で、他者を意識しながら、キリスト者として真剣に生きようとするなら、他への配慮、TPOへの配慮の重要性にたどりつくはずです。
後輩にあたる若者に対してそのことを助言してもよいのではないですか。
それは主のみむねにそぐわないことなのでしょうか。
返信のコメントを読んで、私とありのままぱぱさんとは土俵・生きている世界や背景がかなり違うのかもしれないなと感じました。
失礼ながら、現実の社会、職場、会社、地域の中で生活していくという意識、感覚が希薄なのではないかなとも正直思いました。
話題の選手であれ、朝青龍であれ、だれであれ、ひとりのザアカイにはかわりはない、神の目に高価で尊い方、だから、わたしたちキリスト者は、神と同様に全てを受け入れるべきであり、その人の行いを云々することは愛ではない・・・私にはどこかしっくりきません。
まだコルが未熟者であるためだと思います。
ありのままぱぱさんの問いかけに向き合うとき、私は愛のないものだと思います。
私の愛の成長のためにもお祈り下さい。
いよいよ競技の日です。國母選手の健闘を祈り応援します。
コメントさせていただきありがとうございました。
コルさん、こんばんは。
コメントくださり、ありがとうございます。
○人には、ありのままで受け入れられることがどうしても必要です。
それこそが無限に成長するための資源となります。
この資源がキリストの十字架であるのです。
○人はありのままに受け入れられるとき、わがままになると考えておられるようですが、事実は逆です。
話がそれますが、若者の反抗というものは大人の愛が欲しいという気持ちの現れですし、子供の万引きは愛情飢餓の現れであると一般的に言うことができます。
厳しく接すれば接するほど、若者が悪くなるように見えるのは、こういう訳です。
○配慮とは、自発的意志によるものです。
人の目を気にする村社会意識は、恐れから出ているものです。
この二者は似て非なるものです。
○人の目を気にする村社会意識は、人と違うことを極端に恐れます。
自分が恐れるだけでなく、それを気にしない人を罰しようとします。
私たちペンテコステ派クリスチャンが、日本の福音派教会から裁かれているのは、異言で祈るという、人と違う部分を持っているからです。
しかし私たちは根本教理において一致するならば、キリスト者は一つとなることが出来るということを信じています。
舞台は違っても、物事を理解するための方程式は一つであると思います。
異分子を受け入れることは難しいことですが、キリストがそれを願っておられます。
『キリスト・イエスの心を心とし、キリストの歩み給いしごとく歩め』とは聖書の言葉です。
またコメントしてください。お待ちしています。
ありのパパさん、こんにちは。そして、今回は、コルさんにも、はじめまして、こんにちはと、お声をかけさせていただきたいと思います。
國母和宏さんのニュースを、軽く拝見しました。
私の第一感想は「あらま(苦笑)」でした。そして、そのまま何も印象に残らず、日常に戻っていきました。
ありのパパさんのように、「カッコええな。似合ってるな。」とも思わなかったし、コルさんのように「TPOをわきまえろ」ともなんとも思わず、「まぁ、がんばれ」程度でしょうか。
無関心の極みもいいところですね。本当に愛のない人間とは、こういう者のことかもしれません(苦笑)
そのあとで、今回のありのパパさんの記事と、こちらの皆さまのお話を拝見し、改めて私も考えてみました。
さて、私は、日常生活には支障のない程度の、軽い解離性同一性障害を自覚している者です。
幼い頃から、自分に抑圧に抑圧を重ねた結果、限界を超え、内側にパックリと細胞分裂するように、自分がいくつかの人格に分かれています。
名前が付き主人公として認識している数、”この私”を含め約9名。
その中には、ありのパパさんのような感想を持つ者もいますし、コルさんのような感想を持つ者もいますし、國保和宏さんご本人のような態度をとるような者も、それぞれおります。
その3人で会話シュミレーションをし、”この私”が傍観・会話聞きとり役をしてみました。
まず最初に申し上げたいのは、どれも皆、神の前で”等しく”愛されている、という条件で臨むことです。
3人とも、神の前で等しく肯定され、生かされている、と、きっちりと最初に頭と心と思考に刻んだ上で、対話実験をしてみることです。
そうして、誰と”友だちになりたい”か、と考えた時、私は、ありのパパさんに傾きます。
「へぇ~あんた、この俺にそんなこと思ってくれるのか。じゃあ、もうちょっと話してみようかな…」と、心が傾き開きかけました。
でも、コルさんへは、「この人、怖い」と思い、そこで恐怖で心はたぶん閉じました。
友達になってくれたありのパパさんから、親しく仲良くなった”あと”で「なぁ。あの時は、もうちょっとTPOをわきまえた方がよかったなぁ」と言われたら、「うーん…やっぱそうだったかも…ごめん。今度は、もうちょっと考えて、なんとかするわ」みたいな方向のセリフが、出せるかもしれません。
そうして、彼は、悔い改めが起こり、愛も伝わり、ありのままを受け入れてもらえた上で、TPOももう少し考えられるようになる…そんな気がします。
私がいつも思うのは、どんなお話も、まずそこに信頼関係が成り立っていてこそ、始まり、進んでいくのではないかということです。
ありのパパさんは、まずそこを仰っているのではないかと、私はいつも感じます。
我が肉の親と、最初の信頼関係を上手く学べなかった自分は、ことさらにそこの大切さを思うのです。
その点では、岡田さんの甥っ子さんは、岡田さんのような方が身近にいてくださって、とても羨ましいなぁと思い、私も自分の甥姪には、そういう伯母でありたいなぁと目標に思います。
國母和宏さん、そして、この場にいらっしゃる皆さまを、生かして頂いてありがとうございます。
神に感謝を思い、捧げます。
ありのパパさん、こんばんは。じっくり読ませて頂きました…私は宗教的なものは分かりませんが(ごめんなさい)
高級なスーツをキチンとお召しになられた狸先生や狐先生が今の日本を動かしていると思うと服装って…何?…と考えさせられます。國保選手がもしキチンとた服装や髪型をしていたらゴールドメダルが取れてたのでしょうか…だったら狸先生や狐先生はなぜのらりくらりなんでしょうか…不思議です…
何はともあれ、オリンピック選手の方々は日々の努力で晴れ舞台に挑まれているので結果はどうあれ服装等のせいで色々言われ無いことを祈りつつ応援をしたいです。
あかぽんさん、こんにちは。
コメントしてくださり、ありがとうございます。
仰る通り、國母和宏さんが批判される理由が、別のところにあると思います。
自分と違うものを許すことができないということです。
自分自身をありのままに受け入れることができている人は、他者をもありのままに受け入れることができます。
一人でも多くの方が真に自由に生きることができますようにと祈ります。
これからのよろしくお願いいたします。
またコメントしてください。お待ちしています。
ありのままパパさん、そして皆さん、こんばんは。
「ありのまま人を受け入れる」とはどのようなことか考えてみました。
私はよく思春期の頃から父とぶつかってきました。
父の欠点もよくわかり、前は好きでありませんでした。
でも、感謝なことに、父のことを心から尊敬でき、大好きだといえる今があります。
父が変わったわけではありません。
相変わらずの欠点だらけの父ですが、私の心が神によって変えられました。
すべてをゆるせるし、老いている父の過ちは、私がかわりに「ごめんなさい」と言おうと思えるのです。
ニュースでしかわかりませんが、橋本聖子団長や国母さんのお父さんの言葉に、国母さんに寄り添い、彼をありのままにうけいれるという現実の姿があるのではないかと思いました。
橋本団長の競技後の「よくやってくれた」というねぎらいの言葉、試合に出したという決断、国母さんのお父さんが 「迷惑をかけました。本人に代わって謝りたいです」と言う言葉。
このような姿がありのまま受け入れるということではないかなと考えます。
「ありのままにうけいれる」とは相手の価値観に自分を同調させることではないと思います。
また、その人の過失や欠点を「よし」とすることでもないと思います。
犯罪を犯している人に対してはその犯罪に目をつぶり「それいいよ」というのでもないと思います。
その人に寄り添い、その人の過失を自分にひきうけ、ゆるし、ねぎらい、はげまし、愛していく・・・・現実の生活の中でそれは可能です。
職場や学校、家庭で周りの人をねぎらい、失敗をゆるし、はげまし、愛す・・主イエス様はまさに日々そうしてくださっていますね。
終わりにひと言、公の前での腰パンには私は反対です・・・・でも、そうしたい時期もあるのでしょう。
少しは寄り添ってみないといけませんね。(笑)
コルさん、こんにちは。
味わい深いコメントをありがとうございます。
○コルさんとコメント欄でやりとりさせていただいている間中、神様からの語りかけがありました。
それは國母和宏さんを受容したくないというコルさんを、私が受容しなければならないという御声でした。
しかし受容してなるものかというコルさんを、受容しなければならないと思いつつも、受容できない自分がおりました。
○イエスが排斥なされたのは、宗教を商売の道具にしていた人だけでした。
キリストご自身は律法による救いを真剣に追求する人をも含めて、受容し、愛してくださいました。
○私は同じ意見の人は受容するが、「ありのまま」に賛成しない人は受容しないという、トンデモない奴です。
悔い改めて、神の憐れみを請い、神のご同行を切に願います。
コルさん、これからもよろしくお願いいたします。
ありのままぱぱさん、こんにちは。
受け入れていただき感謝します。
私こそ、いつも生意気なことをいってすみません。
今回はおかげさまで、「ありのまま」受け入れるということについて立ち止まって考えさせられていて感謝しています。
また、これからも賛成できないときにはきっと遠慮無くコメントさせていただくと思います。
よろしくお願いします。
さっそく最も新しい記事「ありのまま」に後ほど、生意気なコメントですが、お送りします。
ありのままぱぱさんこんにちは。
久しぶりにこの一連のコメントを読み返してみました。
自分のことを棚にあげて、國母さんのことをバッシングしていた私自身になさけなくなりました。
私は、不適切な言動や過ちが多い者です。
意識的であろうと無意識的であろうと的からはずれやすい者が、いかにも自分は立派であるかのような一連のコメントをしていることを恥ずかしく思いました。
この場をお借りして、国母さんにお詫び申し上げます。
その人のそれまでの過程や背景、心情などをみないで、外側だけを云々するようなことをイエス様は嫌われました。
私の考えの方向性を改めていきたいと思います。
愛の足りななかった私を赦してください。
ありのままぱぱさん、またよろしくお願いします。
コルさん、おはようございます。
コメントくださり、感謝をいたします。
コルさんにどんな奇(くす)しい神の業が起きたのでしょうか。
主の御名を崇めます。
コルさんのコメントを読んでいて気づいたことがあるのですが、國母選手には國母選手なりの、あのような服装をせざるを得ない理由があるのだということを、私は余り考えてなかったということです。
それで私の文章がコルさんの心に響かなかったのかもしれませんね(笑)。
こちらこそ、これからもよろしくお願いします。
またコメントしてください。お待ちしています。