私たちは当たり前のように、物事には原因と結果があり、現実を改善するためには、まず原因を分析することが先決であると考えています。
①ヨハネの福音書の9章には、イエスの弟子たちが、生まれつきの盲人の方を見て「この人が盲人なのは、誰が罪を犯したせいでしょうか?本人でしょうか。それとも両親でしょうか。」と的外れな質問をしたことが記されています。
このような質問が出てくる背景には幾つかの問題があります。
一つは自分の人生をしっかり生きていないから、他人の人生が気になるのです。
脇目もふらず自分の人生の馳せ場を走っていれば、人様がどうとかは目に入ってこないものです。
もう一つは人間というものは、どうしようもなく律法主義的な存在であるということです。
たとえイエスの弟子であったとしても、これは変りがありません。
人が重荷を背負っていると、必ずそこには何かの落ち度があったと考えます。
そしてその人を裁いて安心します。
安心するとは、他人と自分を比較して、自分は大丈夫と根拠のない安心をするということです。
また自分が成功すると、それは神の恵みではなく(口ではそういうかもしれませんが)、自分が行った努力が報いられたのだと考えます。
そして自分を褒めたたえ、傲慢になります。
②これに対してイエス様は全く異なる視点から、弟子の質問に答えられました。
『本人に罪があるのでもなく、両親にあるのでもない。この人に神の御業がなされて、この人になされた神の御業を通して神の栄光が表されるためである。』
ビックリ仰天です。
これがイエスの考えであり、神のお考えであり、聖書の教えていることです。
③どんな困難があったとしても、それは神の栄光が表されるために存在する。
問題は色々あります。なんだって良いのです。
毎日一回は「全ての問題は神の栄光が表されるためにある。」と告白したいものですね。
そして圧倒的な勝利者である自分を宣言したいと思います。
④真の奇蹟を体験した者は、世に勝つ者となる。
この癒された盲人が、当時の神学者であった律法学者・パリサイ人に弁明している記事を読むと、彼がいかに優れた論争者であったかに驚嘆せざるを得ません。
ユダヤ教の指導者たちが、詭弁を使っても、その罠に陥りません。
普通は『イエスにでなく、神に栄光を帰することを忘れないように』などと言われると、自分が今から言おうとすることを無意識の内に修正してしまうものではないでしょうか?
しかしこの人は違いました。
『あの方が悪い方かどうか私は知りません。ただ一つのことを知っています。それはかつて私は目が見えなかったのですが、今は目が見えるということです。』
彼は自分が癒されたという誰にも否定できない体験から瞬時も離れることがありませんでした。
自分の強みは何かを知っていました。
そしてその強みを最大限に活用しました。
私たちも心したいものです。
⑤私たちは、心のどこかで「何でこんなことが自分の身の上に起きたのだろうか?」と問いかけていないでしょうか。
それに対する答えは「あの時、こうすれば良かった」「あの人に問題がある」「解決することは出来ない」など、およそ否定的なものです。
しかしイエスは、こう言われます。
『あなたに問題があるのでもなく、あなたの周りの人に問題があるのでもない。ただあなたに神の御業がなされて、それを通して神の栄光が表されるためである。』
あなたはどのようにお答えになるのでしょうか。
「そんなこと信じられません」と仰り、今までどおりの人生が過ぎていくのでしょうか?
それとも「わかりました。イエス様、どうぞわたしの抱えている問題を通して、あなたの栄光を表してください。その覚悟と準備は出来ております。」と申し上げなさいますか?
祝福を祈っています。
12ステップにも、色々な種類のものがあります。
①そもそも元祖の12ステップはアルコール依存症のクリスチャン達が始めたAAによるものです。
AAにはアル中の問題を抱えた人だけが参加出来るクローズド・ミーティングと、アル中の家族やこの問題に関心のある人なら誰でも参加出来るオープン・ミーティングがあります。
ありのパパのようにオープン・ミーティングに参加して12ステップの素晴らしさに触れた人もおります。
また複数の依存症を抱えた人が、AAのミーティングに参加して、12ステップを実行することにより、アルコール依存症から解放された人が、今度は他の依存症からの解放のために新たに12ステップを始めるケースもあります。
たとえば薬物依存症からの回復を目指す「ダルク」などがそうです。
AAは、キリスト信仰をもっていてなおアル中から解放されなかった人たちが始めた運動であるため、声高にキリスト教を宣伝することをいたしません。
福音主義キリスト者にとっては、これを受け入れがたいことと考える人もおり、「キリスト者の12ステップ」というものが始まりました。
またディック・ウォレン牧師が始めた12ステップに基づいた「CR(セレブレイトリカバリー)」というのがあることを最近教えていただきました。
②ありのパパははじめ「キリスト者の12ステップ」に触れました。
カウンセリングの中にエンカウンターグループというものがあるのですが、それを学ぼうとして「キリスト者の12ステップ」に出会ったというわけです。
非常に心ひかれるものがありました。
今から考えると、それはありのパパがアダルトチルドレンであったからだと思います。
それで何回もチャレンジするのですが、うまく行きませんでした。
原因は否認と抵抗のせいですが、あと何を言っているのかよく分からないというのもありました。
それで良いということは分かっているのですが、どうやって実行すれば良いかが分からないというところに何年かとどまっていました。
③それで思い切って、AA本部から主要な書籍を購入し、AAのミーティングに顔を出してみることにしました。
そうしたところビンゴ!
回りくどいところがなく、何を言っているかよく分かりました。
それはそうです。回りくどいことを言っている間に、アル中で死んでしまっては元も子もありません(笑)。
AAの12ステップと他の12ステップの運用上の最大の違いは、他の団体は12ステップをじっくりやるというスタンスなのですが、AAは手っとり早くやるというか、とにかくやるというスタンスです。
ありのパパにはこれか良かったのか、面白いほど心の中に恵みが入ってきました。
そのうちにAAの12ステップそのままのものを改変しないで、他の依存症にも適用可能なものにしている書籍に出会うことが出来ました。
それが「回復の『ステップ』」です。
④12ステップの4番目のステップは「棚卸(たなおろし)」です。
これに挑戦するのですが、何かこれだというものがありません。
的を外しているようでした。自分ではどこに問題があるのか分かりませんでした。
やはりアダルトチルドレンが他の依存症の12ステップを活用するのは限界があるのかもしれないと考えました。
それでアダルトチルドレンの団体が行っているミーティングに出席し、書籍も購入しました。
本を読んでみたところ、ステップ1からステップ3までは回りくどく感じたのですが、私が限界を感じていたステップ4についての解説が素晴らしかったです。
まさに「これだ!」という感じがしました。
同じ問題を抱えた人というのは、当然のことながら「痒いところに手が届く」ように人々を導くことが出来ます。
改めて、そのように感じました。
それで今、喜び勇んで4番目のステップをやろうとしているところです。
書籍はミーティング会場で販売しています。一冊1500円でした。
「ACA(アダルト・チルドレン・アノニマス)」をクリックしてくださると、この団体のホームページにジャンプします。
そのホームページには、各地で行われているミーティング会場の案内があります。
⑤アメリカでは12ステップを基礎にした薬物克服施設(リハビリセンター)が多くあります。
芸能人やスポーツ選手が入所するニュースが最近流れましたので、ご存じの方も多いと思います。
日本にはそのような薬物克服施設の存在は聞いたことがありません。
多分税金の補助がないことが最大の原因だと思いますが、それ以外にもやはりキリスト教の背景がないと、この種の施設の存在意義が理解されるのは難しいのかもしれません。
◎皆さんを何かの依存症だと決めつけるつもりは全くありませんが(笑)、ご自分で問題を感じることがあれば、ミーティングに参加してみるのも良いことですし、近くになければご自分が始めてみては如何でしょうか。
祝福を祈っています。
ありのパパにとってはカウンセリングとキリスト信仰は一体のものです。
しかし人によっては、両者の関係が明らかでないという方もおられます。
そこで今日は、カウンセリングで使う言葉と聖書が使っている言葉で、実は同じ意味で使われている言葉があるのを見ていきたいと思います。
そうすることによって、両者がいかに密接に結びついたものであるかが分かると思うからです。
1.罪の奴隷とは?
①聖書には『罪を犯し続けている者は皆、罪の奴隷です。』[ヨハネ8:34]とあります。
この聖書個所は神学者が解釈するのに困難を感じるところです。
なぜなら人間であるなら、「私は罪を犯していない」と言える人は一人もいないからです。
しかし救いとは罪からの救いであると、聖書ははっきり教えています。
とすると、この個所は釈義不可能な場所になるわけです。
②罪を犯し続けるとは、罪に支配されている状態です。
ある神学者は人は死ぬまで罪を犯し続ける存在であると言います。
しかしありのパパはこの意見は詭弁であり、誤謬であると考えています。
なぜならこの意見では、救いは不完全なものであるという理解になるからです。
この神学に立つ人々は、自身の意見の不完全さを補うため、神学的な補強をしておられますが、それでも十分であるとは言えません。
死ぬまで罪を犯し続けると言った途端、人はいともたやすく罪の誘惑に飲み込まれていくと思います。
③では聖書の教えを矛盾なく理解する釈義はどんなものでしょうか?
現代の言葉で言えば、罪の奴隷とは何らかの依存症になっている状態を指しているのではないかということです。
この理解ですと、罪の奴隷という言葉の意味が良く通ります。
確かにアルコール依存症の人は、飲酒という罪の奴隷になっているのです。
2.罪の奴隷と依存症の関係
①気を付けないといけないのは、全ての人が罪人だからといって、全ての人が依存症であるわけではないということです。
また依存症になっていなくても、罪の奴隷であることには変りがないということです。
しかし止めたいと思っても中々止められない悪習慣に染まったことがある人にとっては、罪の奴隷という言葉の意味は説明不要なものです。
なぜなら「そんなことわざわざ言われなくても、経験済みだ」ということです。
②以前なら依存症と言われなかったようなものが、次々と依存症リストに加えられつつあります。
昔なら只の買い物好きと呼ばれるだけだったのに、クレジットカード限度額一杯まで買い物をし、クレジット会社から使用停止処分を喰らうような人々は、現在では買い物依存症と呼ばれます。
また昔は頑固親父が、ちゃぶ台をひっくり返すなどはありふれた光景だったのですが、今こんなことをやったらDV男と呼ばれます。
昔であれば癇癪持ちは正義漢が強いからとか言われましたが、今であれば突発性の怒りをコントロールできない人というレッテルが貼られます。
依存症を当たり前のこととして許容する社会から、依存症を治療対象として考える社会へと変容しつつあるのが現代であると言えます。
③罪の奴隷という言葉と依存症という言葉を同一のものとして見ていくとき、イエスの言葉を初めとした聖書の言葉がよく分かるようになります。
イエスは『奴隷はいつまでも、その家にいられるとは限りません。しかしその家の子であるなら、いつまでもいることが出来ます。』と言われました。
この個所も釈義が難しいと言われています。
しかし「神の家の子どももされているにもかかわらず、依存症のままでは神の家にいつまでもいられるとは限りません。」と釈義するなら意味が通ります。
3.ではどうしたら良いか?
①アルコール依存症者の自助グループであるAAは、クリスチャンであったにもかかわらずアル中から抜け出すことが出来なかった人々によって始まったものです。
自助グループは原則として無宗教ですが、これらのグループでは皆例外なく祈りで始まって、祈りで終わります。
ありのパパなどは心の中で「教会より、教会の集会らしい(笑)」と感じることもあるほどです。
自助グループに出席する人々は、クリスチャンになる人がとても多いようです。
(ただしカトリックです。これは日本でAAを始めたのが、ご自身がアル中になったカトリック宣教師であったことが強い影響を与えていると思います。)
②現代に生きるクリスチャンの大きな悩みは、自分がクリスチャンらしくないということではないでしょうか?
何か自分がしっくり来ないのです。
それで信仰の体験談を頼まれたりすると、しり込みしたり、「いや、お恥ずかしい」と言ってみたりします。
ありのパパなどは「何が恥ずかしいのか!言ってみよ。」などと内心不愉快になることがあるのですが、そう言わざるを得ない気持ちも理解できます。
③演じるクリスチャン・頑張るクリスチャンから、生かされているクリスチャンになるためにはどうしたら良いでしょうか?
それはキリスト教入信後、12ステップなどを用いて自分の心を整理していくことです。
アダルトチルドレンならアダルトチルドレンのための12ステップがありますし、アル中・薬中なら元祖の12ステップを使うと良いでしょう。
皆さんは、「クリスチャンが薬中なんて、あり得ない」と思っておられるかもしれません。
しかしアメリカなどでは薬物に苦しむ沢山のクリスチャンがいます。
日本でも大麻汚染が深刻化しているのを見ても、この波が教会に押し寄せてくるのは時間の問題でしょう。
そうなってから、あたふたしないためにも、今のうちに自分で12ステップをやっておくことです。
そうしたら教会に依存症の方がやってきたとき、しっかりとした対応をすることが出来ます。
日本の歴史上、唯一キリスト教文化が花開いた時代が、キリシタンによって宣教が行われた戦国時代でした。
1549年のフランシスコ・ザビエルによる宣教開始から、1587年のキリシタン禁止令が発布される38年間の短い間でしたが、最も活発な宗教勢力して活躍したのでした。
キリシタン禁止令は数回にわたって出されています。
初めの禁止令は、出されたものの実質的な宣教は禁止されていませんでした。
それが新たな禁止令が出されるたびにキリシタンへの包囲網が縮まっていきました。
聖職者が日本から一人もいなくなるのは1643年であると言われます。
ということは初めの禁教令が出てから56年間、弾圧と迫害に持ちこたえたと言うことになります。
キリシタンに関心のある人々が、様々な問題を投げかけています。
今日は皆さんとご一緒に、この問題を考えてみたいと思います。
1.なぜキリシタンへの迫害が始まったのか?
①イエズス会宣教師は宣教地の文化に配慮して奴隷を連れてこなかったのですが、あとからやってきたフランシスコ会宣教師は奴隷を連れてきました。
これがその当時、奴隷制度のなかった我が国の人々の目には、脅威に写ったのではないかと言う人がおります。
②神社・仏閣を焼き討ちしたことが、迫害が始まった原因であると言う人もおります。
③ゼウスへの絶対的な忠誠心が、当時の支配者には危険なものとして認識された。
当時、浄土真宗の門徒の一揆に手を焼いていた支配者は、浄土真宗以上に強い信仰心をキリシタン達が持っているのを見て、勢力がこれより大きくならないうちに根絶やししようとしたのではないか。
④これらの論を主張する人たちの前提は、キリシタンがもっとうまくやれば、こんなことにはならなかったという思い込みがあります。
しかしありのパパはそのようには考えません。
なぜなら迫害が起きたのは日本だけではなく、時代を超えて全世界で起きているからです。
上記の説明では、日本で迫害が起きた理由は説明できても、ではなぜ他の地域でも同じような迫害が起きているかを説明できません。
やはり聖書が教える通り、『キリストにあって敬虔に生きようとする者は必ず迫害を受ける』と考えるのが妥当だと思います。
⑤だからと言って、キリシタンが犯した失敗から何も学ばないで良いと言うわけではありません。
a.他の宗教との平和共存がうまく行かなかったこと。(神社・仏閣打ち壊しを阻止できなかったこと)
b.宣教地の社会制度を尊重しなかったこと。(奴隷を持ち込んだこと)
c.『神のものは神に、カイザルのものはカイザルに』という聖書の原則からの逸脱があったこと。
これらの事柄は現代のキリスト教宣教に対しても心しなければならないことを教えています。
2.キリシタンはなぜ根絶やしにされたのか?
①まず、はっきりさせておかなければならないことがあります。
それはキリシタン宣教は失敗ではなかったと言うことです。
当時60万~200万人いたとされるキリシタンの三分の一が殉教、もう三分の一は国外追放、残りの人々が隠れキリシタン(潜伏キリシタン)になったと言われます。
彼らは皆勝利者です。『死に至るまで忠実であれ』と聖書が教える通り、信仰を貫き通しました。
②ただ、他の諸国では何世紀にも渡って迫害が続くが、遂にキリスト者が多数派を占めるに至ります。
我が国では、そのようにはなりませんでした。
これの原因を分析することは、現代のキリスト教会にとっても有益だと思われます。
③再臨信仰で有名な森山諭牧師はご自身の著書の中で「暴力をふるったことが迫害に抗することの出来なかった最大の原因である」と書かれました。(亡くなられて何十年も経ちますので実名とさせていただきました)
この説が正しいとすると、キリシタン達は神社・仏閣を打ち壊したことを最後まで悔い改めなかったことになります。
果してそうでしょうか?
聖霊なる神が、行き過ぎた信徒の行動を内的な光によって矯正してくださらなかったと考えることは果たして正当でしょうか。
それとも聖霊の内なる導きに最後まで抵抗して、『聖霊に逆らう罪は決して赦されない』という御言葉が成就したのでしょうか。
ありのパパの個人的感想ですが、そのように考えることは難しいのではないかと思います。
④一番初めのキリスト教宣教者であった景教の宣教も、聖徳太子の改革が挫折することによって、頓挫します。
そして歴史から抹殺されてしまいました。
二番目のキリスト宣教者であるキリシタン達も皆殺しにされました。
三番目のキリスト教宣教者である私たちも、戦前の日本において決定的な敗北を期しました。
しかしこのような苦渋の宣教歴史を経ながらも、日本社会にキリスト教精神が少しずつ浸透しつつあることを認めることができます。
この様なことを考えると、歴史に働く神のご計画というものに、目を向けざるを得なくなります。
3.これからの展望
①隠れキリシタンが聖職者が一人もいなくなってから230年間を耐え抜けた秘訣は何でしょうか?
それは家々に置かれた講(信徒集会・または家の教会に近いもの)であると思います。
この制度によって、彼らは信仰を守り抜き、大部分のキリシタン達はカトリックに復帰していきました。
これは驚くべきことです。
230年間、聖職者の指導がなくても、信徒だけでやってこれたのです。
このことは私たちに何を教えているでしょうか?
②彼らはなぜ命がけになれたのか?
キリシタンはなぜ恐れに打ち勝つことが出来たのでしょうか。
本音のところで神につながっていたのだと思わせられます。
それでもおな、なぜ死をも恐れない信仰を私たちと同じ日本人が持てたのかは、ありのパパには分かりません。
彼らと同じ信仰をもつことが出来るようにと、神に祈ります。
◎キリシタンが打ち立ててくれた土台に、私たちの教会を立て上げることが出来ますように。
キリシタンについての皆様のコメントをお待ちしています。
アメリカ製のドラマを見ていると、言い合いをしていて負けそうになると「あばばばば」という言葉を発するのを聞くことが良くあります。
ひょっとしてこれってペンテコステ教会で行われている異言の祈りをもじっているのではないかと思うのですが、如何でしょうか?
まぁ、それぐらい異言の祈りが未信者にとっても一般的になっている証拠かもしれません(笑)。
今日は皆さんとご一緒に、異言の祈りの効果について考えてみたいと思います。
①聖霊に満たされ続けるために必要。
聖霊のバプテスマによって聖霊充満は実現します。
一般的に言って、聖霊充満のとき感情的に高揚することがあります。
それで気分が高揚することが聖霊充満かと錯覚することがあります。
宗教体験における感情を過度に求めることは健全なことではありません。
これを求め続けることは、カウンセリングの視点から見て、偏り感の強い人格を形成してしまう危険があります。
異言の祈りをするとき、(特に大集会などで)興奮状態で異言で祈る人々がいます。
ある面ではこれは聖霊充満を求めているのではなく、興奮状態を求めていると言えるのではないでしょうか。
異言の祈りは、聖霊のバプテスマにおいて実現した聖霊充満を引き続き維持させるために、神が与えてくださったものです。
ですから与えられた目的をわきまえて使用しなければなりません。
感情が高揚してもしなくても、異言で祈るとき、聖霊に満たされ続けることが出来ます。
②神様との人格的交わりのために必要。
人間が持っている言葉だけでは、神との人格的交わりのためには十分ではないと感じている方が多いのではないでしょうか。
もしそのように感じておられるなら、是非異言で祈る賜物を求めてください。
そうするなら、人格的交わりの何たるかを実感されるでしょう。
③空虚感の解消のために必要。
人の心の中には、神でなければ満たすことの出来ない、空虚感という名前の穴があいています。
ある人はその穴を満たすために、快楽を求めたり、お金を求めたりします。
またある人は穴を満たそうとしてドラッグに走ります。
しかし得たものは空虚感の解消ではなく、空虚感を紛らわすものでしかないことを気づきます。
クリスチャンになっても、空虚感を満たすことが出来ないでいる方も多いと思います。
異言で祈ることによって、この空虚感を神の愛で満たすことが可能です。
④精神的自立のために必要。
精神的自立のために必要なものは一つではありません。
様々な要件がありますが、その中の一つに異言で祈る賜物を活用することによって、神と直付け(じかづけ)の関係を構築することが挙げられます。
神に支配されない限り、神以外の何者かに支配される危険があります。
⑤心の傷の癒しのために必要。
カウンセラーに向かって、クライアントが自分の心の傷を述べるのは、思う以上に骨の折れる作業です。
(そうだからといって、カウンセリングをしないで良いといっているわけではありません。ただ人間同士が行うことにはメリットもあるが、限界もあるということを申し上げたいのです。)
異言で祈るとき、私たちの霊は聖霊の言い難きうめきによって、神に自分の心の傷を申し上げることが出来ます。
異言の祈りを何十年も続けているペンテコステ派クリスチャンを取材してみると、人格的健全さを強く感じます。(もちろん残念ながらそうではないペンテコステ派クリスチャンもおられます。)
◎異言の祈りはあってもなくても良いものではなく、必ずなければならないものです。
このブログをお読みになられる全ての方に、異言で祈る賜物を求めるよう心からお勧めします。
AAなどの自助グループに参加すると、多くの励ましと慰めをもらうことが出来ます。
しかしそれとともに「これはちょっといただけないな」と思うこともあります。
1.自助グループに参加して良いと思ったこと。
①「ここまで正直になるんかい!」と言いたくなるほど、みな率直です(笑)。
多分、少しずつ正直になろうと努めた結果、何年も自助グループに参加しているうちに自己開示できるようになったのだと思います。
余りに本音が出るので、話を聞いていて、思わず爆笑することもしばしばです。
キリスト教会でも、このような本音の交わりが出来るなら、何と幸いなことでしょうか。
自助グループの集会をミーティングと呼びますが、そのミーティングに出席する人々の原則は「言いっぱなし・聞きっぱなし・他言無用」ということです。
②決して人の話を非難や批判をすることはもちろん、評価しないこと。
厳格に聞きっぱなしに徹します。
だからこそ、本音が出るのだと思います。
ありのパパが出席したスモールグループで、ある方の話を聞いていて「それは違うだろ(笑)」と感じることがありました。
そのようなときでも、その感想を決して口にしません。
自然な自己開示が行われるとき、神の癒しの御業が、人々の心に働くことを信じるからです。
癒すのは人ではなく、神であるのです。
③ミーティングが終わったら、人々が何を話したか忘れること。
これは決して口外しない、他言無用ということです。
他の組織ですと、秘密のはずが気が付くと皆知っていたということがあります。
本音の交わりが生命線であるミーティングで、もし秘密が漏れるようなことがあれば、そのグループは立ち行かなくなります。
しかし良くしたもので、ミーティングに働く力というものがあり、交わりを共有するうちに自然とお互いの秘密を守るということが守られているようです。
まぁ、秘密と言っても、重大な秘密であると思っているのは自分だけで、人からしてみたら「だから何?」ということであるのかもしれません。
2.自助グループ出席者の陥りやすい罠
①回復が進んでいないという泣き言が出る。
人間とは欲が深いというか、業が深いというべきか、今自分が持っているものを感謝するよりは、持っていないものに対して未練たらたらになる方が得意のようです。
正直に自分に向き合うなら、アル中であれば、再飲酒していないことが最大の神の恵みであり、これ以上感謝することはないはずですが、成長していない自分に対して段々と自己憐憫の情を持つようになりがちです。
クリスチャンですと、救っていただいただけで御の字(おんのじ)であるにもかかわらず、しばらくたつと中々成長しない自分に対して自己憐憫の情を持つようになります。
信仰の体験談を聞いていると、伝わってくる感情は喜びでなく、「救っていただいたにもかかわらず、こんな自分で申し訳ない」という感情が伝わってくることが多いです。
このような体験談を百回しても、だれもイエスを信じようとは思わないでしょう。
自分がどこから救われたかを忘れてはなりません。
②成長していない、回復していないという自己認識こそ、最大の障害です。
よくよく考えるなら、無力を認めるということは成長できない自分であることを認めることです。
それが一方的な憐れみで救っていただいた途端、どうして成長できないことを嘆くようになるのでしょうか。
それは自分が無力であることを忘れているからだと思います。
「昔の名前で出ています」ではありませんが、福音によって救っていただいたのに、あとは律法遵守によって救いを完成させようとした愚かなガラテヤ教会の人々と全く同じです。
3.ではどうしたら良いのか?
①ミーティング出席と共に、平行して12ステップをやり続ける。
様々な依存症から解放されるための有力な助けとなるものに12ステップがあります。
この12ステップの1から3までは認め、信じ、決心することであり、比較的容易です。
これだけのステップを踏むだけで、誰でも依存から解放されます。
しかしそれに安心して、ステップの4から先をやらないでいると、また依存地獄に戻っていく羽目に陥ります。
続けて12ステップを行うことが、逆戻りを防ぐことであり、自分の無力を忘れないでいるための最大の支援となります。
②どのように感じても良い。そう感じた自分を受け入れる。
人の話を聞いていて、とても受け入れられないと感じることもあります。
これがクリスチャンが未信者と一緒にミーティングを行うことが出来ない理由だったりします。
ある人は受容しなければならないと思う余り、自分の本音を抑圧して、相手の意見を受け入れようとします。
これは抑圧か、演じているのに過ぎませんから、いつか破綻するときが来ます。
「この意見は受け入れられない」と感じても良いのです。
③感じたことと、行動は必ずしも直結しない。
感じたことを(ミーティングにおいて)態度や言葉で表明してはなりません。
何を申し上げたいかというと、人には思ったことを言う権利があり、あなたにはそれをそう思わないと感じる権利があるが、言いっぱなし・聞きっぱなしの原則を守らなければならないということです。
◎ミーティングに出席される方は、皆異口同音に「ミーティングがある日が待ち遠しい」と仰います。
クリスチャンは日曜礼拝が待ち遠しいでしょうか(笑)。
本音で語ることが保証された集会であるなら、待ち遠しくなると思うのですが、皆さんは如何お考えでしょうか?
現在、トヨタ自動車のリコールが大きな問題になっています。
今日は皆さんとご一緒に、トヨタ自動車に関わる問題について考えてみたいと思います。
1.脇が甘くなるとは、どういうことか?
①かつてトヨタ自動車の社長を経験された方が、経団連の会長になられたことがありました。
その方が自民党政権時代に政府の諮問機関のメンバーになられました。
その時に「マスコミがあまりにも反政府的な報道をするようなら、トヨタの宣伝を一切に引き上げる」との発言がありました。
その発言を聞いたとき、ありのパパは「あぁ、傲慢になっているな」と感じました。
一民間企業の経営者に過ぎない者が、報道機関に対して宣伝費という武器をもって恫喝(どうかつ)するなど、あり得ないことです。
聖書に「傲慢は滅びに先立つ」とあります。
トヨタ自動車は、この時期から社内の意識が少しずつ変質し始めていたと思います。
それに気づいて、警告する人がいなかったことが、現在のトヨタの苦境を招いた真の理由ではないでしょうか?
②問題が見えなくなる。
「かんばん方式」という徹底したコスト削減と、借入金ゼロの強固な財務体質が、トヨタの強みです。
トヨタのどこを見ても、欠点や弱みがないように見えます。
しかしそのようなときこそ、本当は心を引き締めなければならないときです。
なぜなら問題は、いつでも認識していない領域から発生するものだからです。
もし、トラブルが警戒している領域から起きたなら、即座の対応が可能であり、初期の段階で解決可能です。
しかし360度全領域を警戒していて初めて、それが可能であるのです。
傲慢になっていると、見えるべきものが見えなくなります。
それで自分は全方位警戒していると思い込んでいるのですが、思いもかけないようなところから問題が発生して、てんてこ舞いする羽目に陥ります。
2.トラブルの原因は、ブレーキシステムではなく、加速制御システムにあるのではないか?
①三菱自動車の製造する自動車に設計ミスがあり、使っているうちに車軸に過重な負担が掛かり、車軸が折れてしまうという事故が多発したことがありました。
この時、三菱自動車は問題の本当の原因を認識していたにもかかわらず、知らんぷりを通そうとしました。
理由は高額なリコール費用でした。
その結果、三菱自動車はリコールに掛かる費用など比較にならないほどの大きな損害を被りました。
②アップルコンピュータの上級役員の一人がご自身のブログで、トヨタ車に乗っていて「不意の制御不能の急加速」があったことを述べておられます。
このようにアメリカでは、トヨタ車の不意に起きる制御不能の急加速という問題は一般的な認識となりつつあります。
決して「アメリカは何でもかんでも裁判に訴える国だから」などという見え透いた言い訳が通用するような状況ではありません。
③トヨタの対応が後手後手に回っているように感じるのはなぜでしょうか?
それは本当の問題に焦点を当てていないからではないでしょうか。
「フロアマットに問題がある」と言われて、違和感を感じるのはありのパパだけでしょうか。
アメリカ国民の多くが「トヨタ車の問題はブレーキシステムではなく、加速制御システムにあるのではないか」と思っているにもかかわらず、子供だましの原因をあげ続けることは自殺行為です。
三菱自動車の二の舞を避けるべきです。
3.これからの課題とマスコミの責任
①アメリカではトヨタ車が制御不能になって一家四人が死亡した事故の様子が、何度も全米で放送されました。
これによって、トヨタ車の事故は自分だけではないという認識が広まったように見えます。
これに比べて我が国のマスコミは、トヨタ自動車に遠慮してトヨタの不利になるようなニュースを決して報道しません。
同じ資本主義社会のマスコミであっても、こうも違うものかとあきれるものです。
日本のマスコミはいつまで、御用マスコミに成り下がっているつもりでしょうか。
日本国内でも、トヨタ車による「不意の制御不能の急加速」が必ず起きているはずです。
是非取材していただき、日本国内における事故の実例を報道していただくことを希望するものです。
②トヨタ自動車では、創業家が今でも経営の実権を握っています。
松下電器などの他の創業家支配が濃厚な企業では、所有と経営の分離が進んでいます。
トヨタではそのような流れに逆行しているように見えます。
ただ、今の社長さんはよくやっておられると感じます。
問題を個人に集約させてしまうという間違いを犯すのではなく、会社というシステム全体を変えていくことが必要であると思います。
③トヨタ車の暴走による衝突事故で、一家四人が亡くなられた事件では、ドライバーの最後の叫びが何回も放送されました。
それは「神に祈ってくれ!」という叫びでした。
トヨタ自動車の人々は、これらの人々に真摯に向き合わねばなりません。
あなたがたは今は自分が被害者であると思っているかもしれません。
しかしもし問題の原因が、加速制御システムにあったとしたら、あなたがたは加害者です。
これ以上被害者を増やさないためにも、小手先の対応を止め、全社をあげて加速制御システムの欠陥を追求すべきです。
人間というものは、自分が理解できないような事態に遭遇した場合、自分でも思いもよらないような対応をしてしまうことがあります。
そしてその対応が後々命取りになることもあります。
今日は皆さんとご一緒に、そうならないために、普段からどんなことを心がけていれば良いかを考えてみたいと思います。
1.分かろうとするのではなく、共にいることを選びとる。
①もちろん理解しようとすることが悪いと言っているのではありません。
どう転(ころ)んでも今の自分では理解不能なことがあるのを認めるのです。
イエスが、罪からの救いや、復活・霊の命を養う食物などについて語ると、多くの弟子たちは『何のことを言っているのか、さっぱり分からない。こんな言葉は聞いておれない。』と言って、イエスから離れていきました。
②これに対してペテロは、他の弟子たちと同様に御言葉の真意は理解できなかったのですが、イエスへの個人的信頼のゆえにイエスから離れませんでした。
あとで分かるように神が定めておられることを、今すぐに分かろうとすることが、人間の失敗の原因になっていると思います。
イエスの母マリアも、その時には分からなくても『心にとどめて、思い巡らしていた』とあります。
分かるべき時が来なければ、分からないことも多くあります。
③今ある知識で既に理解可能となっている事柄を、判断の先のばしをしてはならない。
分からないことを今すぐに結論を出そうとすることが失敗の原因ですが、反対に理解できて当然であることを様々な理由で結論を出さないことも致命的な失敗の原因になります。
カルト教会の問題では、主任牧師による様々な犯罪行為が何年も前から明らかであったにもかかわらず、副牧師や伝道師、リーダー的信徒は、当然なすべき行動を回避し続けてきました。
本当に理解できている事柄に対しては、決然と行動に移さなければなりません。
2.問題から逃げない。
①全ての問題は神が私を祝福してくださるための手段であると受け止める。
企業とクレーマーの戦いについて書かれた本があります。
その本に出てくる企業は、クレーマーを排除するのではなく、彼の希望をかなえる方向で努力したそうです。
そのクレーマーはお金が目的でなく、商品とサービスの品質向上だけが目的であったようです。
その企業とクレーマーとの関係は、そのクレーマーが死ぬまで何年も続きました。
結果として、真摯に対応した企業は業績は向上し、社会的評価も高いものになりました。
もしクレーマーをサタンからの回し者だと思っていれば、こうはならなかったわけです。
②問題に対処するとき、どのような態度が神の栄光を表すことになるかを考える。
私たちは問題を持ってくる人に対して、つい否定的な態度をとりがちです。
毅然とした態度をとることは必要ですが、けんもほろろな態度をとってはなりません。
相手の支配欲求に屈するのではなく、どのように対応すれば神の栄光をあらわすことが出来るだろうかと考えることです。
3.軽はずみな行動を避けるためには、どうしたら良いか?
①問題を長期的に捕らえるだけではなく、今日一日分の問題として捉える。
問題が余りに長引くと「今日こそは決着をつけてやる!」などと思ってしまいがちです。
しかしこれが後々私たちを苦しめる原因になることもあります。
そうならない秘訣は、問題が発生してから、解決するまでを一つのスパンとして見るのではなく、問題を解決するために、今日一日でできることは何かを考え、それか達成できれば良しとすることです。
②問題だけに目を留めない。
私たちが問題に翻弄されている最中であっても、花は咲き、鳥は鳴き、空には雲が流れているのです。
精神的に追い詰められると、食欲までなくす方がおられます。
ありのパパはどんなに悩んでいても三度の食事を欠かすことがありません。
ご飯を食べて美味しいと感じる自分に気づいて、「あぁ、自分の悩みなど大したことはない」と自覚するのです。
③「なぜ私だけが」と考えない。
毎年何万人もの人が罹患するガンという病気があります。
「なぜ自分だけがこんな苦しみに会わなければならないのか?」と言う人がおられます。
私たちにはガンになった理由を知ることは出来ませんが、ガンになった目的を知ることは出来ます。
それはガンになるまではガンで苦しんでいる人のことなど考えもしなかったのに、ガンになることによって自分と同じ苦しみを味わっている人々のことを思いやることが出来るようになるためではないでしょうか。
◎理解不能なことが起きたとき、正しい判断をくだすことが出来るために、日常生活の小さな出来事の中で自分を訓練したいものです。
登校拒否のお子さんを持つ親御さんが言われることに「子供を受容しなさいと言われて、受容しようとするのだが、難しく感じる」というのがあります。
今日は皆さんとご一緒に、どうしたら人を受容できるかということを考えてみたいと思います。
1.『表面的なことだけで判断するのではなく、物事の本質を正しく見極める。』[ヨハネ7:24]
①行いに焦点を当てるのではなく、存在に焦点を当てる。
「お子さんを受容してください」と言われて、「うちの子供に良いところなんか一つもありません」と答える親御さんがおられます。
そのように言いたくなる親御さんのお気持ちも分かります(笑)。
しかし問題は子供にあるのか、それとも子供に一つも良いところを見つけ出すことが出来ない親のどちらにあるのでしょうか?
全ての人間は神によって造られた神の作品です。
ですから皆善い存在であるとして受け入れるのです。
「そんなこと出来ません!」と言う声が聞こえてきそうですが、問題を解決したいならそうするしかありません。
②問題行動の背景を知って、理解する。
子供が万引きなどしたりすると、末は大悪党にでもなるのではないかと、お先真っ暗になりがちです。
しかし決してそうはなりません。
万引きは一般的に言うと、子供の愛情飢餓が隠された理由であり、愛情を欲する子供の発する信号です。
それが分かれば、あとは子供に愛されていることを自覚させることが出来れば、万引きは止みます。
③受容と肯定は違う。
存在を受け入れるのが受容であり、行為を受け入れるのが肯定です。
分かりにくく感じるかもしれませんが、たとえば「人を殺してきた」と言う人に向かって、「あなたがそうせせざるを得ないお気持ちがあったんでしょう」と言うのが受容であり、「人を殺しても仕方ないよね。時にはそういうこともある。」と言ってしまうのが肯定です。
もう既にお分かりのように、肯定してしまうと人は癒されることが出来なくなります。
人が癒され成長していくのは、ただ受容されたときだけです。
2.自分自身を受容する。
①自分自身を受容している分しか、人を受容できない。
ある特定の人のある特定の行為が、癇(かん)に触ってしようがないという場合があります。
ありのパパはかつては遅刻する人が赦せませんでした。
その人が悪びれもしていない場合は、怒りが爆発しそうでした。
遅刻した人に対して怒りを感じるのは当然のことであると思っていました。
ある時に、ありのパパ自身が遅刻する自分を赦せないことが、人を裁いてしまう原因であることに気が付きました。
ありのパパは心の中で「遅刻しない自分は合格。遅刻する自分は生きていてはいけない。」と知らず知らずのうちに考えていたのでした。
それで思い切って「遅刻しても、しなくても、自分は生きていても良いのだ」と文章記述(頭の中でグルグル回っているテープレコーダーのことを指します)を変えてみました。
そうしたところ、遅刻する人に対して理不尽な怒りを感じなくなりました。
また遅刻してはいけないというプレッシャーから解放されたせいで遅刻しなくなりました(笑)。
②出来ない自分を受容する。
受容しようと努力するのですが「やはり自分には出来ない」と諦めてしまう方もおられます。
そのように思うことは、ある意味では当然なのです。
「私は人を受容できる」と公言してはばからないカウンセラーがいました。
しかしそのカウンセラーは、受容できないと言う人を裁いているような感じがありました。
ありのパパはそれを見て「なんだ。受容してないじゃん。」と思ってしまいました(笑)。
本当に受容するとは、受容できない自分を受容することです。
それでこそ、願ったように生きることが出来ないで苦闘する人々を受容することが出来るというものです。
③神に委ねる。
家族にアルコール依存症者がいたりすると、自分が何とかしないといけないと考えがちです。
しかしこれはいけません。
なぜなら人には人を癒す権能がないからです。
人をお癒しになるのは、神様だけです。(もちろんこれを言い訳にして、自分がなすべきことをしないのはいけません。)
私たちに出来るのは、人々をありのままに受容することです。
この関係を作ることが出来れば、この関係性を通して神様が癒しの業を行ってくださいます。
3.一元的視点で見つめる。
①全てのことを働かして益としてくださる神の計画を信じる。
問題が起きれば悪いことが起きたと受け止めている限り、私たちの人生は振り回され続けます。
そうではなく、すべては私たちを祝福するために神様がお与えくださっているのだと受け止めていくことです。
②家庭の外の人間関係を活用する。
お子さんが問題を起こしたとき、家族だけで何とかしようとしないことです。
昔は親戚のおじさん・おばさん、近所のおばさんが何くれとなく気を配ってくれたものです。
それで子供たちは家庭に欠損があっても、確実に育つことが出来ました。
今の日本社会には、そのような地縁はありませんから、他の人間関係を見いだし、活用しなければなりません。
最も有力なのが、教会における人間関係です。
正常に機能する教会とは、長老や役員と呼ばれる人たちが昔の親戚のおじさん・おばさんに当たり、教会学校の教師たちが昔の近所のお兄さん・お姉さんに当たるような役割をこなしている教会です。
③子離れする。
お子さんが十代の後半であるなら、それは親が子供から精神的自立をはかるべきというシグナルであることもあります。
早く子供から手を引きたいという親もおれば、いつまでも子供に関わっていたい親御さんもおられます。
前者の親はどちらかというと子供っぽい親、後者の親はどちらかというと支配欲求の強い親ということが言えるでしょう。
どちらにしても、親が子育てから、いつかは撤退しないといけないときがやってきます。
そのシグナルを見逃さないように気を付けていることが大切です。
◎人を受容するというのは、困難なことです。
しかし「この人は受容できない」と思える人は、実は自分に似た人であるのです。
他者受容に励むことは、同時に自己受容を促進させることにもなります。
そう思って、お互いは他者受容に励もうではありませんか。
カトリックとプロテスタント・リベラル派と福音派で共通する点があると言えば何でしょうか?
それは死後の救いについての教えです。
しかし異なる点もあります。
それはカトリックには煉獄という都合のよい教えがあり、リベラル派には万人救済主義という博愛主義の教えがあり、福音派にはセカンドチャンス論という新手の教えが登場しました。
そこで今日は皆さんとご一緒に、この死後の救いについての教えを考えてみたいと思います。
1.そのどれもが聖書が教えていないことを教えている。
①煉獄
カトリック教会は煉獄の教えを聖書の記述から類推できるものであると言っています。
しかし聖書をまともに読む限りにおいて、煉獄の教えなどは決して出てくるものではありません。
カトリック教会は人が救われるのは、信仰と行いによると教えます。
しかし救われるために行いが必要であると教えている限り、人が救われることは決してありません。
その欠陥のある教えを補強するのが、煉獄の教えであると言えます。
もし信仰によって、行いによらず恵みによって救われるのであれば、初めから煉獄などは必要ないのです。
②万人救済主義
この論を主張する人たちは、聖書全体は「神は愛である」ということを語っており、万人救済主義はこの「神の愛」と整合性があるといいます。
果してそうでしょうか?
万人救済主義を肯定するためには、聖書の中に具体的に書かれてある御言葉を否定しなければならなくなります。
要するに聖書の教えの総論には賛成するが、具体的に書かれている各論には反対するということになります。
問題は、万人救済主義の立場に立たないと、神は愛であるということを否定することになるかということです。
決して、そんなことはないと思います。
具体的に書かれている聖書の言葉を曲解しなくても、神が愛であるということを証明することが出来ます。
(歴史的キリスト教の立場に立つ教会が、未信者の死後の問題に対して、とても愛があるとは言えない態度を取り、それが人々を傷つけたという歴史の事実をも忘れてはならないと考えます。)
③セカンドチャンス論
この論の主唱者は、興味深いことに聖書信仰の立場から、煉獄の教えや万人救済主義を否定しています。
しかし残念ながらご自分の主張も聖書を文脈にしたがって解釈しているとは言い難いものです。
論拠聖句としてあげられている個所を見ると、その聖句が元々言っていないことを無理やりに付与しています。
聖書解釈の原則は、聖書が言わんとしていることを読み取ることですが、この方の場合は元々主張したい論があり(この場合はセカンドチャンス論)、御言葉を後付けで持ってきているのに過ぎません。
この方の聖書解釈の特徴は、聖書が否定しないから、その否定しないことは肯定されているという考え方です。
こんな馬鹿な解釈の仕方はありません。
そんな解釈が許されるのであれば、どんな教えでも作り出すことが可能となってしまいます。
2.神の御前での人間の人格的応答の機会を奪うものである。
①危機的状況が人に決断を迫る。
人間というものは、その時にならないと真剣に考慮することをなかなかしないものです。
また分かっていながらも、その時にならないと決断できないものです。
自分を見てもそうですし、会社などの組織、大きくは国家的な決断ということにも、それが言えると思います。
②個人における危機的状況とは一体なんでしょうか?
それは貧困や病気、人間関係の問題などがあげられますが、一番大きいのはやはり死の問題でしょう。
死が人間に立ちはだかっているから、人は真剣に人生の意義を考えるのです。
これが「死後の問題は既に解決されているから、何も心配いらないよ」ということであれば、人々は死後の問題を真剣に考えることをするでしょうか。
決して、しないと思います。
3.単なる宗教の人集めに過ぎないものに、宣教を変質させてしまう。
①教会がこの世の組織と違うところはどんなところでしょうか?
それは教会は永遠の命を与える福音を宣べ伝えているということです。
死後に、もう一度選ぶチャンスがあったり、既に救われているのだとしたら、福音の宣教はどのような意味合いを持つものとなるのでしょうか。
教会にとっての宣教は、デパートが商品の売り上げのために人々を寄せ集めるのと、本質的には変わらないものとなってしまいます。
要するに来たいなら来れば良いし、来たくないなら来なければ良いという類のものです。
これは信教の自由の原則という視点からは正しい理解です。
しかし福音を宣べ伝える責任がある教会が採用するべき理解ではありません。
②『聖霊もまた共に働いてくださり、宣教の言葉を確かなものにしてくださった』(聖書の言葉)
教会が福音を必死的に宣べ伝えるのと、「信じてもいいし、信じなくても構わない」という気持ちで福音を宣べ伝えるのとは、同じことでしょうか。
いいえ、全く違う結果を生みだすと思います。
また「どっちでも良いよ」という態度の福音宣教に聖霊のお働きが伴うと考えることは出来ません。
◎黙示録の最後の部分には「この聖書に余分なものを書き加えることも、また省くことも決して赦されない。そのようなことをする者には呪いが下る。」とあります。
煉獄も、万人救済論も、セカンドチャンス論も、これはみな人が作り出したものであるという点で、聖書に余分なものを書き加えることです。
ありのパパが心から申し上げたいことは「そんなことをしなくても、聖書を正しく理解することによって、神が愛であることを体験することは可能です」ということです。
共に聖書を誤りのない神の言葉と信じる信仰、歴史的キリスト教の立場に立って歩もうではありませんか。
Tags: セカンドチャンス・万人救済論
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