arinopapa on 2月 9th, 2010

黒板に文字を書くときに使うものと言えば、それはチョークです。
そのチョークの国内生産でトップの企業の社長さんが、「心の時代」という番組のインタビューに応じておられました。
なぜインタビューされたかというと、その会社は重度の知的障害者を社員の70%雇っていらっしゃるからです。
従来は重度の知的障害者は一生施設に閉じ込められて暮らすことを余儀なくされていました。
しかしそれを不憫に思う親御さんの願いがあって、会社での雇用に踏み切ったそうです。
そうしたところ、採用された方が良き働きをされたので、他の従業員さんから「私たちも応援するから、重度の知的障害者をもっと雇いましょう」と言われたそうです。
様々な工夫を重ねながら、今では従業員全体の70%が知的障害者で占められるまでになったそうです。

この社長さんは障害者の親御さんに三つの条件を言われます。
①しもの世話は自分で出来ること。
②一生懸命仕事をすること。
③挨拶が出来ること。
この条件は健常者といわれる人であっても、難しいことではないでしょうか(笑)。

現代の工場の生産方式は一人で何役もこなすやり方が主流です。
しかしこのやり方は、知的障害者には不向きです。
それで一人で五役こなすやり方ではなく、五人が一つずつ仕事をこなすやり方を採用しました。
そうしたところ、結局同じ生産性を達成することが出来たそうです。
この様にして様々な工夫を重ねながら、一人一人が生きがいを持って人生を送ることが出来る環境造りに努められたのでした。

さて、この社長さんがインタビューの中で、大変大きな励ましを受けたことをお話してくださいました。
この工場には全国から沢山の見学者が訪れるのですが、その中に小学生の一団がおられました。
その小学生の皆さんは大変感動され、しばらくたってからお手紙をくださったそうです。
その手紙の内容は「天の神さまはすべての人にその人でなければならない才能を与えておられるのですね。僕も自分でなければならない賜物を見つけ出したいと思います。ありがとうございました。」
ありのパパはラジオでそのインタビューを聞いていたのですが、その小学生のお手紙が読まれたとき、大きな驚きと畏怖を感じました。
ありのパパの思い込みかもしれませんが、明らかにこの小学生はクリスチャンだと思いました。
その小学生の手紙が、社長の心を打ち、より一層障害者の皆さんが働きやすい環境造りに努めるように仕向けたのです。
これが本当のクリスチャンだと思いました。

ヨハネの福音書の6章1~15節には、少年が(五つのパンと二匹の魚の)自分が食べるための弁当を皆のためにイエス様にお献げした記事があります。
この少年も先の作文を書いた小学五年生の男の子と同じく、自分がしたことが大きく用いられるとは考えても見なかったでしょう。
ただ目の前に自分の心を動かす人々がおり、その人々のために自分が何をすることが出来るかを考え、自分の持っているものを献げたのでした。

私たちも自分の持っているものを献げることによって、神の奇蹟を体験したいものです。
そのために必要なこととは、どんなことでしょうか?

①自分が今持っているものを献げる。
自分が持っていないものを献げることは出来ません。
あるお母さんが「娘を神様に献げます」と言うのを聞いたことがあります。
もちろんサムエルを献げた母の例もありますが、まず第一に大切なことは本人の意志です。
ありのパパが見ると、どう見てもその娘さんは献身したいとは思っておられないようでした(笑)。
これは多分自分が献身できなかった夢を、娘に押しつけているのに過ぎないと思われます。

②犠牲には夢と喜びが伴っていないといけません。
神様は泣く泣く献げることを求めておられません。
この少年も自分の弁当を献げたら、お腹がすくと思ったでしょうが、それ以上にこの弁当をイエス様に献げたら、どんな凄いことが起きるかと思うと胸がわくわくし、「一日ぐらい、腹が減ってもへっちゃらだい!」と思い切ったのではないでしょうか。
現代にも献げるクリスチャンは多くおられるのですが、これを献げたらどんな素晴らしいことが起きるかと胸をわくわくさせておられる方は少ないように見えます。
何か悪代官に搾取されているような被害者意識を持っているのではないかと感じられるのです。
どうぞ、そのような方は献金をしないでください。
神様はあなたの財布をあてにしておられません。
あなたが献げなくても、神の御業は進みます。
ただその御業にあなたが参加出来ないだけです。
楽しみと喜びで胸が躍るようになってから献金しても決して遅くはないと思います。

③教会は無理強いしては絶対にならない。
教会員に献金を強制する教会があります。
こんなことをする教会は、未信者より悪いのです。
なぜなら自分を神にしているからです。
聖霊なる神が働かれて、一人一人の心の中に思いを与えてくださいます。
自分自身が神を信じていないから、教会員に献金を強制するのです。

また、ルールを守ることが必要です。
未成年者が親から相続した土地を、無償で贈与させるようなことがあってはなりません。
本人による返還請求がなされたときは、当然のことながら返還請求に応じなければなりません。
何十年も只で使わせてもらったのですから、本来なら賃借料を払わなければならないところです。
それを無効の申し立てをするなどは、常軌を逸しています。
聞くところによると、莫大な贈与税の支払いを求められる可能性があるとのことです。
これがもし良心に従って、返還請求に応じるか、賃借料を払っていれば、はるかに少ない金銭的負担ですんだのです。
これが神に従う者には祝福が、神に反逆する者には呪いが下るということの実例です。

◎いくら歳をとったとしても、小学五年生の男の子や、五つのパンと二匹の魚を献げた少年のごとく、単純・素朴の信仰をもってイエス様にお従いさせていただきたいものです。

arinopapa on 2月 8th, 2010

アメリカではスマートフォンと呼ばれる電話機が全体の15%を占めるようになったそうです。
一番多いのはブラックベリーと呼ばれるプッシュメールに特化した機種です。
これはオバマ大統領が愛用している機種であり、一躍有名になりました。
次に多いのがiphoneです。
これは後発ながら、使いやすいインターフェースで一挙にメジャーに躍り出ました。

ありのパパが使っているwindows mobileですが、アメリカでも日本でも占有率を下げ続けています。
それには理由が幾つかあります。
一つは知らないうちにフリーズするということが頻繁に起こり、電話機としては実用に耐えないということです。
PDAとして使う分には便利なのですが、電波の待ち受けのために24時間電源が入っていなければならない電話機の役目をwindows mobileが担うのは荷が重すぎたようでした。

そこで今日はwindows mobileをPDAとして利用するのはどうかという提案をしたいと思います。
ドコモから発売されている東芝製のT-01Aは現在1円で販売されています。
二年間の間、毎月980円払う必要がありますが、逆に言うと、23520円で高機能のPDAを手に入れることが出来るわけです。

では、スマートフォンを利用してどのような便利な使い方が出来るでしょうか。

①ノートとして

普通の電話機でも、メモ程度なら可能ですが、スマートフォンであれば、ノートとして利用することが可能です。
ありのパパはtomboというソフトを使わせていただいています。
なお、tomboはパソコン用にも同名のソフトがあり、自動的にシンクロが可能になっています。
入力にはTeaPadというツータッチ入力が可能なソフトを使っています。
このソフトを使うとパソコンでローマ字入力をするのと同程度の速さで入力できます。
(個人差があります。ありのパパはパソコン入力には親指シフト入力を使っており、普段ローマ字入力を使っていません。そのありのパパのローマ字入力と同程度ということです。)

②家計簿として

家計簿ソフトの「ポケットひかる」というソフトを使っています。
ワンタッチ入力が可能であり、前回の入力を覚えており、その項目を自動的に出す設定も可能です。
グラフにして表示してくれ、我が家の消費状況を一瞬のうちに明らかにしてくれます。
なお、このソフトにも同名のパソコン用のものがありますが、ポケットひかるの単独使用で十分効果を発揮できます。

③スケジュール管理として

Offisnail Dateというソフトを使わせていただいています。
このソフトは超便利です(笑)。
ワンタッチで月画面・週画面・一日画面を表示させることが可能です。

④電子聖書として

1987年頃に8cmCD-ROM規格の辞書を中心にした「電子ブック」というものがありました。
いのちのことば社からも(一万円もしましたが)、新改訳聖書の電子ブックが発売されました。
この電子ブックは専用プレーヤーでもパソコンでも使えました。
しかし電子ブック市場が崩壊し、専用プレーヤーも販売が中止されました。
その時ありのパパは一万円も出して買った電子ブックが使えなくなると思うと複雑な気持ちになりましたが、ソフトアプリ制作者の方が、電子ブックをwindows mobileでも使うことができるソフトを作ってくださいました。
はじめは新改訳聖書の電子ブックは動かなかったのですが、作者様と何回か連絡を取らせていただき、無事動くようになりました。
今は紙の聖書は現代訳聖書だけを使っています。
スマートフォンには今ご紹介した新改訳聖書の電子ブックを入れ、パソコンには口語訳聖書の電子版が入っています。
なおパソコン用のソフトは「ロゴスミニストリーのブログ」で紹介されていたものです。
上記の括弧内をクリックすれば、該当ブログにジャンプすることが出来ます。
(聖書についての有意義な記事が沢山ありますので、お読みなされることをお勧めいたします)

⑤携帯音楽プレーヤーとして

音楽プレーヤーとしてipodが有名ですが、短所はipodでしか再生できない特殊なフォーマットであることです。
mp3ですと、ほぼすべての機種で再生が可能です。
ただし音質はipodのほうが上のようです。
大体ipodの128kとmp3の160kが同じぐらいだと言われています。
GSPlayerというソフトを使わせていただいています。

⑥電子地図&GPSとして

iphoneも電子地図が使えますが、インターネットを介してgoogle mapsを利用します。
そのため、インターネット使用料の上限まで行くことを覚悟しなければなりません。
毎月の通信料を千円程度に押さえているありのパパには、出来ない選択です(笑)。
windows mobileですと、メモリーカードに全国の詳細地図を入れておくことが出来ますので、通信せずに利用することが出来ます。
この電子地図は6300円で購入可能です。(現在はセール中で4410円で購入できます)
4410円という金額はiphoneの一ヶ月の通信料に当たります。
わずか一ヶ月分のお金で何年でも地図を利用することが出来ます。

⑦インターネット端末として

日本通信という会社のサービスを利用すれば一分10円でインターネットを利用することが出来ます。
これがドコモのサービスを利用するなら、あっと言う間に上限の5980円までいってしまいます。
モバイルインターネットをヘビーに使う人はドコモの定額インターネットを利用されるのが良いと思います。
しかしメールとブログの閲覧程度にモバイルインターネットを利用する方は日本通信を利用するのが良いと思います。
(日本通信のサービスを利用する方法は、ドコモによってサービス利用が遮断される可能性があります。
なお、この件に関しては自己責任で行っていただくようにお願いいたします。
またお問い合わせもご遠慮していただくようにお願いいたします。)

○今日ご紹介したソフトは家計簿と地図以外はみな無料のフリーソフトです。
iphoneに比べてwindows mobileは有用なフリーソフトが多くあるというのも特徴の一つであると言えます。
どうでしょうか。あなたも今日からスマートフォンを使ってみませんか(笑)。

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arinopapa on 2月 7th, 2010

「人間関係はやっぱりギブアンドテイクよね」などというセリフを聞くことがあります。
でもなんかおかしいと言うか、違和感が残ります。
それはその言われている方の本音は「テイクアンドギブ」と言っておられるからではないでしょうか。
「そっちが初めにくれたら、やらないでもない」と言っているのです(笑)。
しかしギブアンドテイクの真意は「与えなさい。そうすれば与えられます」(聖書の言葉)です。
与えない限り、与えられないのです。
それを間違って受け取って「くれたら、お返しに与えないでもない」というのでは永久に与えられる機会はやってきません。

1.なぜ私たちは先に与えられることを要求するのでしょうか?

①それは失った経験があるからです。
過去に大切なものを失った経験があると、今度もまた失うのではないかと恐れます。
その恐れが暴走すると、自分が与えなければならないような状況になると反射的に与えることを拒否するようになります。
多くの人は幼児期から成人になるまでの過程で、失う経験(喪失体験)を多くしています。

②それを取り戻したいと願っているからです。
無意識的に人生のどこかで、失ったものを取り返したいと思っています。
それはことあるごとに意識の表面に出てきます。
自分の子供に親の夢の実現を強要する親御さんがおられます。
これは実現できなかった自分の夢を取り戻すためです。
しかし親の夢を押しつけられた子供はたまったものではありません。
子供には子供自身の夢を追求する権利があります。
子どもの権利を侵害してはなりません。

③「与えられる訳ないさ」と心のどこかで諦(あきら)めているからです。
ある人は「諦めているなら、なぜ先に与えられることを求めるのでしょうか」と問うでしょう。
それは初めから人生という名前の試合をなげているからです。
要するに戦う気などないのです。
リングに上がらないで、場外から叫んでいるのです。
リングに上がらないで場外で叫んでいる限り、気が楽ですし、大きな損失もないように見えます。
しかしリングに上がって人生という名前の試合を真剣勝負で行わない限り、祝福がやってくることもありません。

2.イエス・キリストがプレゼント(賜物という意味)として私たちに与えられました。

①それは最も大切なものが与えられたことを意味します。
女性が男性に対して根強い不信感を持っているのを見ると、ありのパパは心の中で「ひょっとしてこれはエデンの園で男性の始祖であるアダムが女性の始祖であるエバを愛するという役目に失敗したことが、人間のDNAに焼きついているのではないか」とも思ったりします(笑)。
罪のために失った人間が幸福になる権利を、イエスは自らが十字架に掛かることによって回復してくださいました。
ですからこのイエスを自分の心のうちにお迎えした者は、失ったものが回復されていると言うことが出来ます。

②それはすべてのものが与えられたことを意味します。
このイエスが、主の祈りにあるように「日々の生活に必要な一切合切を与えてください」ます。

③それは本質的なものが満たされることを意味しています。
霊的な必要はもちろんのこと、精神的な必要も満たされます。
霊的な必要とは、イエスの御霊と呼ばれる聖霊なる神様が信じる者と共にいてくださるということです。
精神的な必要とは、社会生活の中で必然的に受けてしまう心の傷をイエスが癒してくださるということです。

3.ではどうしたら与えられる前に与えることの出来る人生を送ることが出来るでしょうか?

①人々を日々受容することです。
「夫に受容されたら、私も受容する」と口をとがらせて、ありのパパに言った方がおられました。
しかしその方は聡明な方であり、自分から受容しない限り、誰も自分を受容してはくれないことを理解され、精一杯ご主人を受容なさるようになりました。
これは訓練でもあります。
自分から始めるのです。気分が良くても悪くても、とにかく実践するのです。
(もちろんどんな人でも受容すれば良いというものではありません。包丁を振り回している人がいたら、この場合は受容するのではなく、その包丁を振り落とすことがまずやるべきことです。)

②自分自身を日々受容することです。
自分自身と自分の区別がよく分からないという方がおられます。
それはそのぐらい自分自身を無視し、抑圧してきたということでもあります。
全然感じなくても、自分自身に向かって話しかけてみることです。
そうしたら今まで隠れていた自分自身が姿を現すようになります。
鏡に映る自分自身に向かって、日々「あなたを愛している。あなたはわたしの目に高価で尊い」と言ってあげることです。
ある方がキリスト教雑誌で「鏡に映る自分に[あなたを愛している]と言えと教える者がいるが、そんなものはでたらめであり、真のキリスト教ではない」と言っておられました。
しかしそうではありません。
「木は実をもって知られる」のです。
本物かどうかは社会でどのような証を立てるかということに掛かっており、また裁きの御座で父である神様が明らかにしてくださることです。

③神様にそのままの自分自身が愛されるいることを日々感謝することです。
他者を受容できるのも、自己受容が出来るのも、その恵みの源泉はイエス・キリストにあります。
イエス・キリストが十字架に掛かるほどに私たちを愛してくださったのです。
ここに神の愛があります。
こんなにも神さまに愛されているからこそ、今日も生きて行くことができるのです。
信仰生活に力がないと感じるとき、恵みが当たり前に感じられるとき、それは神が私を愛してくださっていることを忘れているときではないでしょうか。
神の愛を忘れるということは、神の愛を必要とするほどには自分の無力を痛感していないということです。
自分の無力を痛感するとき、初めて神の愛を必要とするようになります。

◎与えられる人生ではなく、与えて生きる人生こそ、生きがいのある人生ではないでしょうか。

1.神により頼むことと、信仰依存症との間には、どんなちがいがあるでしょうか?

①神に従った結果に、責任を持つ。
ある人々は「神様が責任を持ってくださる」と言います。
確かにその通りです。
しかしその結果は私たちが願ったようなものでないことが多々あります。
却って人の目には、失敗に映るようなこともあります。
神への真の依り頼みは、自分が願ったような結果でなくても、その結果を受け入れます。
しかし信仰依存症の場合は、受け入れることが出来ず、不平と不満が心の中から出てきます。

②真の依り頼みは自分がしなければならないことを弁(わきま)えています。
しかし信仰依存症の場合は、自分は何もせず(熱心に祈りはしますが)、ただ神が働いてくださることを求めます。
偽預言者・三流の評論家のようです。

③神への依り頼みは日々気づきをもたらしますが、信仰依存症は日々妄想の度合いを深めます。

④神への依り頼みは戦略的発想・実際的信仰をもたらしますが、信仰依存症は被害妄想的・陰謀論的発想に陥ります。

⑤神への依り頼みは外部からの批判に対してオープンに応じようとし、内部からの批判に対しては謙遜な態度をとります。
信仰依存症は外部からの批判に対しては抑圧的態度をとり、内部からの批判にはヒステリー的反応を示します。

2.どうしたら信仰依存症にならないで、神への真の依り頼みとなることが出来るでしょうか。

①常に現実から目を背けない。
信仰依存症のパターンは「こうあるべき」「こうなるべき」というものです。
周囲の現実を無理やりに自分の理解の範囲に押し込めます。
型に入れて焼くケーキのようです(笑)。
私たちを取り巻く現実はアメーバのように変幻自在に変わります。
この摩訶不思議と言わねばならないような現実をどのようにして理解すれば良いか途方に暮れます。
しかし理解するのが難しいと感じるときは、大体においてこちらの側の理解の枠組みが硬直化しているときです。

このようなことが教会では良く起こります。
例えば服装が乱れた若者が教会にやってくると、年寄りたちはそれを咎(とが)めます。
年寄りたちの言い分は「教会にやってくるには、それなりの服装というものがあるだろう」というものです。
しかしこれは順番が逆です。
本当は若者たちが教会にやってくるために、こちら側が変わる必要があるのです。
それをこちら側は少しも変わらず傲慢なままであるのに、それにもかかわらず若者たちが教会に来てくれたのだから感謝しなければならないのに、それを咎め立てするとは何ごとでしょうか。
理解の枠組みが硬直化すると、神の御前では罪であるような考え方を平気でするようになります。
お互い気を付けたいものです。

②定型的に物事を考えないように努める。
定型的な考え方というのは、本質を捉えず表面だけを捉えて、浅はかな結論を出してしまうことです。
例えば伝統的な教会では「離婚してはならない」という聖書の教えを律法主義的に解釈します。
元々の聖書の教えは、離婚することによって不利な立場に追い込まれる婦人の権利を保護するためのものでした。
それがこの律法主義的な解釈によって、婦人に新しい重荷を与えてしまうことになりました。
だれも好き好んで離婚する人はいないのです。
仕方なく離婚に追い込まれるのです。
その切ない気持ちに寄り添うことなく、離婚をした人を一方的に裁いてはなりません。
神の裁きが行われるとき、呵責のない徹底した裁きを受けるのは、離婚した人でしょうか。
それとも離婚した人を裁いた人でしょうか。

③立場や意見の違う人と議論を戦わす。
ありのパパは以前はキリスト教リベラル派の存在を認めていませんでした(そのことに気づいてさえいませんでした)。
それがこのブログを始めるようになって、リベラル派クリスチャンの方と意見を交わすようになって新しい視点が与えられました。
それでリベラル派キリスト教を受け入れることが出来るようになりました。
たしかに福音主義キリスト教(この言い方をするときは、いわゆる福音派とペンテコステ派の両方を含んでいます)だけでは、この社会においてキリストの証人としての任務を十分に果たすことが出来ないばかりか、自分たちが罪に陥っていることさえ気づかなかったと考えるようになりました。
「どうぞご勝手に」と言っている限り思考・理解の枠組みは硬直化したままです。
もちろん誹謗中傷・罵詈雑言は何の役にも経ちません。
こんなことをしたい者は精神病院の鍵のかかった部屋で行えば良いのです。
相手を配慮しつつ、丁寧な言葉づかいで行われる議論だけが有益な結果をもたらします。

◎さて、私が、そしてあなたが持っておられる信仰は、神への真の依り頼みでしょうか。
それとも信仰依存症とでも呼ばなければならないようなものでしょうか。
神の御前で自らの信仰を省みたいものです。

現在、永住外国人に対する地方選挙権を与える法案が提出されようとしています。
与党内では、この法案に賛成する勢力が多数を占めていますが、根強い反対勢力もまた存在します。

それで今日は、この法案が理に適っているかどうかを考えてみたいと思います。

①税金支払い義務と選挙権はワンセット
税金を支払わせておいて、選挙権は与えないというのは、泥棒と同じです。
彼らはすべての税金を支払っています。国税も地方税もです。
しかし権利は何一つ与えられていません。
普選運動(すべての人に選挙権を求める運動)では税金を払っていることが選挙権を持つ根拠とされました。
そこからさらに進んで税金を払っているかどうかにかかわらず、すべての人に選挙権が賦与されました。
そうであるにもかかわらず、永住外国人は税金を払っているにもかかわらず、選挙権を与えられていません。
これは国家が泥棒をしているのと同じです。

②国政選挙権と地方選挙権は全く別のもの
外交や国防に影響を与える国政選挙権を永住外国人に賦与するのとは全く違うことです。
しかし反対する人々は、いったん地方選挙権を与えてしまうと、なし崩し的に今度は国政選挙権賦与に進むのではないかと言います。
これは妄想も甚だしいと言わなければなりません。
どうしてこのような誇大妄想的な発想が出来るのでしょうか。
陰謀論に与するのもいい加減にしなければなりません。

③妄想と捏造の歴史観を振り回す者たちが、反対しています。
日本という国家に対して誇りを持っている日本人なら、この様なことは絶対に出来ることではありません。
彼らの正体は、日本という国を貶(おとし)める売国奴にほかなりません。

民主党内における反対論者は、この法案を提出したときに、批判の嵐が巻き起こるのではないかと恐れているようです。
しかし反対を恐れて公約を実行しないなら、政治家として失格です。
フランスの元大統領のミッテランは死刑制度を廃止するとき、こう言いました。
「国民の多数は死刑制度廃止に対して反対しているのを知っている。しかし次のことを知っていただきたい。社会党を選んだということは死刑制度廃止を選んだということなのだ。」
この言葉通り、世論の反対を押し切って死刑制度廃止を実行しましたが、廃止後の世論調査では死刑廃止賛成が多数を占めていました。
これが本当の政治家というものです。
国内の少数のきわめて激烈な反応をする者たちを恐れるなら、初めから政治家など志さなければ良かったのです。
政治家は反対を恐れてはなりません。
毅然たる態度で法案を通過させなければなりません。

◎豊かな社会とは、市民一人一人が尊重される社会です。
税金だけ払わせておいて、選挙権を与えないような著しい不平等があってはなりません。
この国会で法案が成立することを強く求めます。

arinopapa on 2月 4th, 2010

五つのパンと二匹の魚だけで、何千人ものお腹を一杯にすると言う奇蹟をイエスは行われました。
ありのパパなら、この奇蹟一つで十分であり、あとはその思い出だけで生きて行くことができると思われるほどです(笑)。
しかし当時の人々はそうなりませんでした。
イエス様が「人が真に自立した存在となるためには、真の神を心に迎え入れることが必要である」と説かれると、人々は「私たちが信じるためには、あなたはどんな奇蹟を見せてくださいますか?」と聞きました。
これを本音のところを強調して訳すと、こうなります。
「ほぉ~、結局あんたは自分のことを信じなさいと言いたいわけですね。話によっちゃ、信じてやっても良いが、そのためにあなたはどんな奇蹟を私たちに見せてくれますか?」
イエスは何物にも依存しない自立した人の有り様を説いておられるのに、そのために必須である救い主を信じるということを、御利益信仰と同じにしているのです。
話が噛み合わないのも甚だしいと言わなければなりませんが、イエス様は「俺、もうやんなっちゃった。天国に帰る」とは言われませんでした。
ありがとう、イエス様!(笑)
あくまで忍耐深く人々が真の価値観に目覚めるのを待っておられました。

神様以外のものに依り頼むと、私たちは依存症になります。
「信仰は別でしょ?」という声が聞こえてきそうですが、いいえ例外はありません。
奇蹟を体験すると、信仰者は奇蹟依存症とでも呼ぶべき状態におちいる危険があります。
伝道に熱心な信仰者は、伝道依存症とでも呼ぶべき状態に陥りやすくなります。
議論好きなクリスチャンは、議論依存症にかかりやすいのです。
教会でさえも、依存の対象とするなら、教会依存症になります。
副作用がないのは、神様に直接依存する道だけです。

精神的・霊的に自立していない人は、何をやっても依存的になると言えます。
では精神的・霊的に自立するには、どうしたら良いのでしょうか?

①神との関係において自立する。
願いがかなったら、自分は神に愛されており、叶えられなければ自分は神に愛されていないと感じる人は、霊的に未熟な人です。
成熟した人は、成功しても失敗しても、神が私を愛しておられることを疑いません。
こんなことを書いているありのパパも、信仰に入ったばかりのときは、電車に乗って寝過ごすと「なぜ神は私を起こしてくださらなかったのか?」と真剣に悩みました(恥ずかし~い)(笑)。

②自分自身との関係において自立する。
「やれば出来る」と考えている人は、本当のところを言えば、精神的に未熟な人です。
なぜかと言えば、成功した場合は自分が良くできたからと考え、その反対に失敗したときは自分に問題があるから失敗したと考えます。
結局、これは自分の努力に依存しているのにほかなりません。

「生きていれば、良いことも悪いこともある」と思えるのが、精神的に自立した人です。

③隣人との関係において自立する。
人が自分の思った通りに動いてくれたら、自分は幸せであり、良い友達に恵まれていると思い、自分の期待に反した行動をした場合は、自分はなんて惨めな人間であり、悪い友達しか持っていないと思うようなら、その人は依存的な人です。
対人関係で自立している人は、「私は私である。そして(and)、あなたはあなたである」という関係が築ける人です。
未熟な人は「私は私である。しかし(but)、あなたはあなたである」という緊張関係を築いてしまいます。
また支配的な人は「私は私であるが、だけどあなたはわたしのもの」という関係を築きがちです。
被支配的な人は「私は私であるけれど、私はあなたのものでもある」というまさに逆支配関係を造りがちです。
健全な人間関係とは、まず第一に「私は私である」とはっきり言い切れることです。
その次に「あなたはあなたである」と言うことができることです。
そして「私とあなたの間」に「だけど」や「しかし」という単語が入らず、「そして」という単語が入る関係です。
友人関係においても、夫婦関係においても、会社の人間関係においても、この距離の取り方が身に付くと人間関係がうまく行きます。

◎私たちが、霊的にも、精神的にも、社会的にも、真に自立した存在になることを、イエス様は願っておられます。
祝福を祈っています。

arinopapa on 2月 3rd, 2010

気づきとは何でしょうか?
「あっ、お腹がすいているのを気づいた!」というのは、ここで言わんとしている気づきではありません(笑)。

気づきとは様々な使われ方をする言葉ですが、最も重要な点はイエスから恵みと癒しを受け取るために必須のものであるということです。
ある人は立派な信仰をもっているのですが、気づきが乏しいというか、気づきがありません。
そのような信仰は、地上では益がないものですし、何より人を傷つけるかもしれません。

それで今日はアダルトチルドレンがどうやってその束縛から自由になっていけば良いのかを、皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。

アダルトチルドレンが気づきを得るために。

①両親によって虐待されているとき、イエスがその場にいてくださったのなら、なぜ助けてくれなかったのかと思うのは、もっともであると感じます。

ありのパパが罵詈雑言を浴びせ掛けられたとき、イエス様のお気持ちが少し分かりました。
それはその方に「気づいてほしい」とイエスが思われ、その故にありのパパを助けることをしなかったということです。
ありのパパはその時まで、心のどこかに「こんな目にあって損だな」という思いがあったのです。
しかしイエスの御心を知ってからは、損だと思わなくなりました。
それはイエスは十字架に掛かってくださり、ご自分の責任を全うされたうえで、その方の気づきを待たれたからです。
また「自分がなぜこんなひどい言葉を浴びせ掛けられなければならないのか」と自分のことしか考えていないありのパパが人の気持ちに思いが行くことを、イエスは願われたゆえに黙っておられたのではないかと思います。

②その浴びせ掛けられた罵詈雑言が、時々思い出され、その度に実際(肉体的)に胸が締めつけられます。
これをこのまま放っておくと、心臓病になるのかと思いました。
そのようなとき、イエスのもとに行きます。
サマリアの女の信仰が開眼するのを忍耐深く導かれたイエスは、今も私たちの霊的な目が開くのを待っておられるのです。
イエスが忍耐しておられるのなら、私も忍耐することが出来る。
もちろんそんな力はどこにもありませんが、賜物として与えられた聖霊の力によって忍耐することが出来ると信じます。
そしてイエスのお気持ちを考えていると、自分が受けた傷が気にならなくなるのです。
イエスの御意を考えることを止めると、自分の傷が疼(うず)き始めます。
だ・か・ら、またイエスのもとに行きます(笑)。

③両親から虐待を受けていたとき、イエスはそこにおられましたが、ご両親が気づきを持つのを待っておられました。
「なぜその時助けてくれなかったのか」と言われるあなたが今は人を傷つけておられます。
今もあなたが人を傷つけているそのところにイエスは共におられて、あなたが気づきを持つのを待っておられるのです。
両親から受けた心の傷以上の傷を、あなたはもう十分に人に与えています(笑)。
もうそれで十分ではありませんか。
いくら人を傷つけても、自分の心の傷が癒えることはありません。
ただイエスのもとに行くことによってのみ、癒しを受け取ることが出来ます。
イエスのもとに行くには、下記の祈りをすることによって、行くことが出来ます。
イエスは今もあなたを待っておられます。祝福を祈っています。

◎祈り:
愛するイエス様、私は自分の力では自分自身をコントロールできないことを認めます。
神様なら、こんな自分をお救いになることが出来ると信じます。
自分の意志と生き方を、神様の御心にささげ、従います。アーメン。

(お断り:このところに出てくるアダルトチルドレンは一般化されたものです。誰かを特定したものではありません。)

arinopapa on 2月 2nd, 2010

エクソダスって何だす?(笑)
エクソダスとは、奴隷の民であったイスラエル人がエジプトから脱出したことを指す言葉です。
現代・日本では「既存の教会はもうダメだからエクソダスすることが唯一の道である」と教える人がいます。
今日は皆さんとご一緒に、このような主張が何処から出てくるのかを考えてみたいと思います。

1.脱出するほかはないと言われた教会と、脱出を受け入れる側の教会に違いはあるでしょうか?

①教理面での違いはあるでしょうか?
両方とも聖書信仰というか、福音主義キリスト教です。
ということは、どちらも基本教理は同じということです。

②では基本教理以外にどこが一番違うかというと、「自分たちの教会は他の教会とは違う」という認識をもっていることです。
このような自己認識はどこから来るのでしょうか?
カルト化した教会を見ると、一般的に言えることは、カルト化するきっかけは「自分は他のものとは違う」という自意識です。
この自意識は、この世的なエリート意識と、キリスト教カルビニズムの予定論の中にある選びの思想とが、奇妙に結びついて出来たもののように思えます。

2.害はないか?

「まぁ、彼らの主張にも一理あるから、言わせておけばいいんじゃないの。」と言う方もおられます。
本当にそうでしょうか?
既存の教会に幻滅を感じ「こんなはずじゃない。どこかに聖書的な教会があるはずだ。」と思っている人々にとって、彼らは魅力的にうつります。
一般の教会が一生懸命伝道して救いに導いたクリスチャンを、カルト教会が幻影を振りまいて引き寄せているだけでなく、その彼らのうちの少なくない人々が傷ついているとしたら黙認してはなりません。

①カルトの本質とは何でしょうか?
カルトと言うと、一風変わった教えを奉じているかのような印象がありますが、そうではありません。
そのような教会はセクトと言います。
ではカルトの本質はどのようなものでしょうか。

a.牧師と信徒の支配関係が強固である。
教えていることは聖書に忠実であり、言っていることは至極もっともであることが多いのです。
その裏で牧師によるカリスマ的支配が行われているようです。
ですからゲスト・スピーカーとして何回か呼ばれて行ったぐらいでは、真実を見抜けないのもやむを得ないかもしれません。

b.微妙に軽いノリが支配している。
分からないことはなく、全てが明らかにされているという建前が支配しています。
この建前の前では、メンバーは自分の問題や教会の問題を口にすることが出来ません。
普通の教会ですと、教会やメンバーに問題があることが当たり前のことであり、むしろそれを解決するために教会は存在しているという理解です。
これに対してカルト化した教会では、問題が存在することは許されないこととなります。

c.自分たちにも問題があることを認めようとしません。
聖書は入信した後、カウンセリング的なアプローチによって、個々の問題を解決するようにと教えます。
しかし彼らは自分たちの教会は完全な教会だから、自分たちには問題はないとでも言いたいようです。

一般的な教会ですと、罪人同士の集まりという意識がありますから、心を百%開くということはありません。
ここまでなら良いかな、ここまでなら平気かな、と様子を見ながら少しずつ心を開いていきます。
しかしカルト化した教会では、指導者は完全であり、問題がない存在ですから、心を開かない方がおかしいとされます。
それで無理やり心の扉がこじ開けられます。
本当に心の傷が癒されていれば良いのでしょうが、信徒の心の扉を強引に開くということの中に、人を支配したいという欲求や、自分は力のある存在であるという思い込みがあるのを見ることができます。
このような状態では、信徒は深刻な心的外傷を受けることは必至です。

②あるカルト教会の被害者が2.chに自分が巻き込まれた事件の書き込みをしていたところ、所属していた教会の牧師が書き込みを始めました。
その書き込みにはその被害者の方にかかわるトラブルの内容が詳しく書かれていました。
この行為に対して、被害者の方は沈黙せざるを得なかったようです。
普通、牧師やカウンセラーの立場にあるものが、信徒やクライアントの相談内容を誰かに漏らすということはありません。
それがこのケースでは2.chという誰の目にも触れることができるインターネットの掲示板に書き込まれました。
ありのパパはこれを見て、この教会がカルト化していることを確信しました。
告発に対して異常な反応をするのは、カルト教会に共通した特徴であるように思います。

3.それでも彼らに害はないと言えるでしょうか?

①異端と呼ばれるエホバの証人も日本の教会は偽物であり、エクソダスするようにと勧めています。
彼らの教理は歴史的キリスト教のものではありませんし、聖書の教えとは根本的に異なっています。
そんな彼らが教会を指して、間違っているとか、エクソダスするようにというのは、ある意味では筋が通っています。
しかし基本教理が既存の教会と同じであるにもかかわらず、既存の教会から脱出するように教えるとは、一体どういうことでしょうか?
まさにこのところがカルトであることの印です。

②そんな彼らであっても、具体的な批判には、耳を傾けざるを得ないでしょう。
a.エクソダスの主張の根拠はどこにあるのか?
b.自分たちを他の日本の教会とは違うと主張する根拠は何か?
c.深刻な人権侵害の事例について、どのように弁明するのか。

◎彼らが悔い改めるべき点は悔い改めて、主のエクレシアに戻ってくることを願っています。

arinopapa on 2月 1st, 2010

株式投資をやっていて教えられたことは、「お金って、儲けることが出来るんだ」ということです(笑)。
ありのパパはサラリーマンはやったことがありますが、自分で商売をやったことはありませんでした。
それでお金というものは一生懸命仕事をやっていると、会社から給料日に支給されるものという思いが強かったのです。
しかし株式投資をやるようになって、目の前で元本が増えたり、減ったりするのを見て、「ありゃ~、お金って増えたり減ったりするんだ」という当たり前のことを再確認したのでした。

○ヤコブ式投資法

旧約聖書に、ヤコブが羊をじっと見ることによって、自分の願う斑(まだら)模様の羊を大量に生ませて、財産を増やした記事があります。
これも株式投資を始めるまでは「へぇ~、そうなんだ」ぐらいにしか思わず、深く考えることをしませんでした。
それが株式投資を始めてからは興味の尽きない記事になりました。

○献金の喜びを知りました。

今でも大した金額は献金できていませんが、それでも以前よりは献金することに対して気前が良くなりました。
世界の中で献金を必要としているNPOはないか注意するようになりました。

○聖書の記述と経済がリンクするようになりました。

今までは旧約聖書の記事から「ヨエルの年」の規定を持ち出して、発展途上国の借金の棒引きを迫る西洋のNPOの主張などに違和感を感じていました。
それが今はこのようなNPOの主張に共感を感じるようになりました。
なぜなら貧しい人々や国々を大切にすることが、経済が祝福されるための秘訣であることを知ったからです。

○逆説的ですが、お金を大切にするようになりました。

今までは多少無駄遣いをしても、給料日になればまとまったお金をいただけるので、「まっ、いいか」みたいな感じで黙認していました。
それが現在は、今はあるお金であっても明日はどうなっているか分からないと思うと、自然に無駄遣いしなくなりました。

○時を生かして用いることに敏感になりました。

今まではコツコツやっていれば何とかなると考えていました。
もちろんこの考え方は基本的な人生の指針としては間違っていません。
しかし人生を全体として捉える考え方ととともに、目の前にある一瞬のチャンスをどのように生かしていくかという考え方もまた必要であると思うのです。

話がだいぶ飛びますが、アダルトチルドレンはチャンスを生かすのが苦手です。
他の人が苦もなくチャンスを自分のものに出来ているにもかかわらず、突拍子もない行動に出てチャンスをつぶしてしまうことがあります。
それでアダルトチルドレンであるありのパパはチャンスに振り回されて却って失敗することがないように、チャンスが目の前にあっても知らん顔をすることが多くありました。
このようなアダルトチルドレンがチャンスを自分のものにする秘訣は、あらかじめやってくるチャンスを予想しておくことです。
ふいにやってくるチャンスをものに出来る確率は、アダルトチルドレンにとっては非常に低いと思います。
しかし待ち構えていてやってきたチャンスを逃すことは、アダルトチルドレンであっても余りないと思います。

このような視点から考えてみると、株式投資はアダルトチルドレンにとってはチャンスを生かしやすい類のものであると言えます。

◎どうでしょうか。皆さんも株式投資にチャレンジしてみませんか?(笑)
(実践なされる際は、株式投資という名前のカテゴリーをクリックして、ありのパパの失敗しない株式投資法を良くお読みいただいてから実践なされるようにお勧めいたします。)


arinopapa on 1月 31st, 2010

讃美歌に「目を上げて見なさい。畑ははや色づいて刈り入れを待つばかりになっている」というのがあります。
ありのパパはこの讃美歌を歌うたびに、現実を見ると、魂が色づいて刈り入れを待つばかりになっているとは、どうしても思えませんでした。
しかし自分自身の認識が誤っているのを気づきました。
確かに二千年前から、心の畑は色づいて収穫を待っているのです。
ではどうしたら、主イエスのお約束通り、収穫の日を迎えることが出来るのでしょうか?

1.人々の必要にカウンセリング的アプローチをもって答える。

①ヨハネ4章35節でイエスは『刈り入れのときが来るまで、まだ四ヶ月あると言っていませんか。人の心に蒔かれた御言葉の種によって芽が出、刈り入れをするまでには、あと四ヶ月も待つ必要はありません。それどころかもう心の畑は色づいて刈り入れるばかりになっています。』と仰いました。

これを言われた直前にはサマリアの女の信仰を開眼させておられます。
そのことについてイエスは深い満足を感じておられたように見えます。

イエスの伝道方法は説教も奇蹟も行われましたし、悪霊追い出しもなされました。
しかしイエスが一番充実感を覚えられたのは、カウンセリング的アプローチであったようです。

②現代は伝道が難しい時代であると言われます。
直接的な伝道はむずかしくなっていき、効果もなかなか上がりません。
しかし同時に「心の時代」であるとも言われます。
ということはカウンセリング的アプローチであれば、まだ伝道の門は大きく開かれているのです。
伝道は難しいと言う暇があったら、カウンセリングを学ぶことだと思います。

③以前の日本の教会では「カウンセリングでは救われない」とか全く的外れなことが言われていました。
またカルトグループもカウンセリングを卑しめることによって、自分達の教えを高めるという手法を取っていました。

しかし最近の教会の牧師の不祥事の原因は、心の問題が癒されないでそのままになっていることであると思います。
「奇蹟によって癒されました!」と宣言しても、癒されていないものは癒されていないのです。
癒されたふりをすればするほど、膿がたまり、より醜い形で外部に噴出することになります。
だから癒されたふりをするのを止め正直な心になって、神のみもとに行かなければなりません。

2.教会

教会は信者の人格的交わりの場所です。
こう言うと必ず「でも礼拝の場所でもあるよね」という声があがります(笑)。
確かにその通りです。
しかし人格的な交わりなしの礼拝は、異教徒に混じって礼拝をしているのと余り変わりがありません。
もちろん同じ時間に礼拝と人格的交わりを同時にしなければならないと言うことではありません。
そうではなく礼拝は普段本音で交わっている人々と共にささげるのものであると言っているのです。

これが刈り入れとどう関係があるかと言いますと、大ありのこんこんちきなのです(笑)。
救われた人が教会に行かなくなる理由の一つは、教会の人間関係に躓(つまず)いたというものです。
本音で交わっていても躓くときは躓きます。
しかし本音で交わっているときの躓きは修復可能です。
建前で交わっているときの躓きは、それが原因となって「はい、さよなら」となります。

3.御言葉

聖書は読めば読むほど味わい深さが増す書物です。
聖書を読むという営みは一生続きます。
初めはぎこちなく、中盤では神学を読み込み、分かったつもりになるかもしれません。
しかしそれでも続けて聖書を読む営みを続けていると、聖書自身が輝きだし、読む人の人生を照らすようになります。
本当です。ありのパパの体験です(笑)。
ありのパパのように回り道をしないですむ道は、聖書は聖書によって解釈するという原則を守ることです。
もちろん神学を参考にしてもいいですが、聖書に神学を読み込むということを厳に避けなければなりません。

◎カウンセリング的アプローチと、本音の交わりと、聖書中心の信仰生活があれば、必ず多くの人々に福音をお伝えすることが出来ると信じます。
大いなる刈り入れのときを迎えたいと思います。

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